信康山 清瀧寺

東海

徳川家康が、織田信長に処断を迫られ自ら切腹を命じた嫡男松平信康のために建立した寺。
信康は信長の娘徳姫と結婚したが、謀反の嫌疑をかけられ22歳の若さで政略の犠牲となった。
境内奥に信康廟があります。

清瀧寺山門。

清瀧寺(浄土宗)は、京都の知恩院の末寺であり、本尊は阿弥陀如来である。
天正 7年(1579) 9月15日、信康は 21歳の若さで二俣城において自刃した。

この時、浜松へ二俣村の役人らが呼び出され、二俣には浄土宗の寺院はいくつあり、寺の名は何というか書き出せとの仰渡しがあったという。

ところが二俣には浄土宗の寺院は 1つもなく、それでは庵室でも良いからということになり、庵室のあったこの地に信康の廟所、位牌堂、その他の諸堂を建立した。

これが清瀧寺のはじまりで、信康の遺骸はこの地に葬られ、法名を騰雲院殿前三州達岩善通大禅定門と称されることになった。

天正 9年(1581)、家康公は清瀧寺に来ると、清水の湧き出るのを見て、寺名を清瀧寺と名付け、信康には清瀧寺殿と諡(おくりな)をしたといわれる。

清瀧寺には、信康の他に当時の二俣城主大久保忠世、殉死した吉良於初、三方ヶ原で討ち死にした中根平左衛門正照、青木又四郎吉継らの墓もある。

現在、清瀧寺では毎年10月初旬には非業の死を遂げた信康の霊を慰めるべく、「信康まつり」が盛大に行われており、又、二俣城にあったといわれる井戸櫓も再建ながら存在する。

天正 9年(1581)、家康公は清瀧寺に来ると、清水の湧き出るのを見て、寺名を清瀧寺と名付け、信康には清瀧寺殿と諡(おくりな)をしたといわれる。

清瀧寺には、信康の他に当時の二俣城主大久保忠世、殉死した吉良於初、三方ヶ原で討ち死にした中根平左衛門正照、青木又四郎吉継らの墓もある。

現在、清瀧寺では毎年10月初旬には非業の死を遂げた信康の霊を慰めるべく、「信康まつり」が盛大に行われており、又、二俣城にあったといわれる井戸櫓も再建ながら存在する。

付近には信康廟を示すプレートが埋め込まれている。

墓地から長い石段を上がったところにある信康廟。

信康廟への参道。

葵の門の扉を開き参拝した。

 打つ櫂(かい)に 鱸(すずき)はねたり 淵の色 普子

松尾芭蕉の門人であり、江戸蕉門の代表である室井其角(普子)の句碑が本堂前にあります。

句は、元禄7年(1694)9月、江戸を出て、伊勢、堺、大阪に到る途中、二俣に立ち寄った時のものとされています。

また、この地は本田宗一郎 ゆかりの地、この信康ゆかりの寺で、二俣尋常高等小学校時代の宗一郎少年は、正午を知らせる鐘を30分前に突き、まんまと弁当を早く食べたといわれている。

なんとも微笑ましいエピソードだ。

悪妻の典型と伝えられる家康公正妻の築山殿。

今川の人質とされていた若き日の家康と結婚したこの女性は、義元の養女だったためか気位が高く、悪妻の典型として描かれるのが常である。

「生得悪質、嫉妬深き御人也」(「玉輿記」)と書いている資料もあるほどだから、今後もし築山殿ファンの歴史家があらわれたとしても、定説を覆すのは容易ではあるまい。

徳川家資料「改正三河後風土記」によれば、築山殿は次女お万の局が家康の寵愛を受けたと知るやお万の局を全裸にして縛りあげ、林の中に放り出したという。

しかも築山殿は、家康宛てにこう書き送った。
「我が身こそ実の妻にて(略)、つらくあたらせ給うとも、一念悪鬼となり、やがて思ひしらせまいらすべし」

信康自刃に関しては諸説ある、近年では通説は疑問視される傾向にある、そのあたりをウィキの記述から紹介する。

通説への疑問

五徳(徳姫)との不仲は松平家忠の『家忠日記』によると事実のようだが、不仲や不行状というだけで信長が婿の信康を殺そうとするのか疑問である。

また、家忠が日記に記した「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」の部分は原著では「御○○○の中なおしニ」と破損しており、信康が仲違いしたのは「御新造」(徳姫)ではなく「御家門」(松平康忠、久松俊勝、松平康元)であるとの説も提示されている。

また「御母様(=築山殿)」の可能性もあるし、「御前様」つまり家康の生母・於大の方の可能性もある。
御前に関しては天正3年(1575年)12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた石川数正によって実兄の水野信元が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、祖母と信康の仲が険悪になっていた可能性がある。

ちなみに数正は後年に徳川家から出奔している(橋場日月の説)。

また、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、このような緊張関係を同盟者である家康に強いていた様子は伺えないし、徳川政権成立後に、事件の発端となった五徳に対して、家康が2,000石の領地を与えている理由もよく分かっていない(実際に所領を給与したのは五徳の義弟にあたる松平忠吉。

さらに、築山殿がいかに家康の正室といえども、武田氏と裏で外交ができるような力があったかも疑問である。
しかも、信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。
それにも関わらず、家康は築山殿を連座させており、いずれも不可解である。

また、『三河物語』では、信康を庇わなかった酒井忠次は「知らないと言えばいいのに」と家康に嘆かれ、他の家臣達に憎まれたとされているが、その後も徳川家の重臣の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっている。
さらに、家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていない。

父子不仲説

このため近年では、家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになった。

『三河物語』では信長は「(信康)切腹させよ」と答えているが、『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめているもの)や『当代記』では、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、また家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。

また信長は「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」と答えている。
これは家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということのようである。

また『家忠日記』によると、事件が起きる前年の天正6年(1578年)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されている。

さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことが伺える。

また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」とあり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせる。

また信康の異母弟・松平忠輝は、その容貌などから父・家康に嫌われ続けたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のような発言を残している。
「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。
「恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり」(『藩翰譜』)。
この発言から、信康の面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことが伺える。

ただ家康は晩年になって「父子の仲平ならざりし」とこの時の事件について後悔している。

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清瀧寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1405 MAP
電話:053-925-3748

天竜浜名湖鉄道二俣本町駅から徒歩20分、新東名浜松浜北I.Cから車で10分