蓮華王院 三十三間堂

京都府

春の風物詩「三十三間堂の通し矢(弓引き初め)」、「頭痛封じ」にご利益(りやく)があると評判の楊枝のお加持、千体千手観音坐像で有名な三十三間堂。
平清盛が後白河上皇の命により、法住寺殿の一角に建立した。

三十三間堂の通称は、南北に伸びるお堂の正面の柱間が33であることに由来する。
堂内中央に本尊千手観音坐像を安置。その左右には長大な階段状の仏壇があり、1,000体の千手観音立像が各10段50列に並ぶ。

千手観音立像は本尊の背後にも1体あり、計1,001体である。
また、風神像・雷神像、二十八部衆立像も安置されています。

この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。
その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。

後白河法皇の発願により1164年に平清盛が造進。
本尊は千手観音。

法住寺は,永延2(988)年右大臣藤原為光が娘*子(花山天皇女御)の死後,その邸宅を寺とした。
長元5(1032)年に焼失し,のち再興の記事はない。

さらに1世紀あまり後,後白河法皇(1127~92)が,出家してここを院御所として住し法住寺殿と呼ばれた。

江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。

三十三間堂の西側軒下を南から北に矢を射通す競技である。
一昼夜に南端から北端にまで達した矢の数を競う大矢数が有名。

しかし、紀州藩の和佐範遠が総矢数13053本中通し矢8133本で天下一となった(1686年)という記録からもわかるように、数打ちゃ当たるの精神でしかない。

写経奉納塔。

法然塔(名号石)
元久元年(1204)3月、時の土御門天皇が当院で後白河法皇の13回忌を行った際、請いをうけた法然上人が音曲に秀でた僧を伴って「六時礼讃」という法要を修した。
この碑は、その遺蹟として「法然上人霊場」にも数えられ、いまも参拝する方々がある。

夜泣せん(せん=酉+泉)
お堂創建の翌年(1165)6月の7日、ひとりの堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で「古今著聞集」には「いつも冷たく美味しくて飲んでもお腹を痛めることのない”極楽井”でどんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない不思議な泉だ。」と記されている。

鐘楼
松の樹木が林立する庭園に淡紅色の四脚が建ち、屋根は瓦葺きの楼で、大きな鐘が吊ってある。

南大門と太閤塀(重要文化財・桃山時代)
南大門は三間一戸の八脚門で、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した大仏殿方広寺(現・国立博物館一帯)の南門として築いたものと伝える。

それに続く築地塀は高さ5.3m、長さ92mの堂々たる建造物で、瓦に太閤桐の文様を用いることから「太閤塀」と通称され、ともに桃山気風にあふれた遺構です。

久勢稲荷大明神
境内の西南で太閤塀の近くに建てられている。

第77代、後白河天皇の陵。
京都の三十三間堂のすぐ東側にある。

観光の途中で立ち寄るには便利の良い立地ですが平日しか扉が開いていません。

東大門近くの池のほとりには蝋梅(ろうばい)が咲いています。

河津桜もほころび始めています。

久勢稲荷大明神の近くでは水仙が咲き誇っていました。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

三十三間堂へのアクセス、行き方歩き方

三十三間堂公式サイト

京都府京都市東山区三十三間堂廻町657

■ JR京都駅より … 市バス100・206・208系統10分、バス停「博物館三十三間堂前」下車スグ
京阪七条駅より … 徒歩7分
■ 駐車場 … あり(50台)
■ 車イス参拝可。専用トイレ、境内遊歩道あり。