古代大輪田泊の石椋 遥かな昔の港をしのぶ

兵庫県

わずか半年ながら、神戸の福原に遷都した平清盛。
清盛が描いた夢の跡をたどってみた。
今回は古代大輪田泊(おおわだのとまり)の石椋(いわくら)。

この石椋は昭和27(1952)年の新川運河の拡張工事の際に松丸太の棒杭とともに出土した石椋と推定されるもの。

石椋とは石を積み上げた防波堤や突堤の基礎のこと。
現在は築島水門近くに展示されている。

古代大輪田泊の石椋[案内説明板より
この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4tの巨石20数個と一定間隔で打ち込まれた松抗とともに発見された一石です。

当時は、平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
その後、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代後半から平安時代中頃の大溝と建物の一部が発見されました。

このことにより石材が発見された場所は、当時海中であったと推定されます。
石椋とは、石を積上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。

その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積み上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推測されます。

大輪田泊は、平安時代のはじめに律令国家の管理のもと造営された泊(港)です。
当時、物資輸送や外交航路として重用しされていた瀬戸内海の航路と泊の整備が進められていました。

当時の史料には泊の運営管理を行う官舎や石椋等の港湾施設が整備され、中央政府から派遣された造大輪田船瀬(泊)使が泊の造営や修築にあたり、修築後は国史(こくし)が運営管理を行っていた様子が記されています。

また、承和3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新の文化や情報を取り入れるための遣唐使船が暴風雨を避けるために寄港していることから、このころには大型外洋船の寄港地としても整備されていたことが窺えます。

石椋の想像図部分を拡大。

兵庫運河に係留された船
大輪田泊(おおわだのとまり)は兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。

12世紀後半の平清盛による修築が有名。
輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。

清盛塚に程近い、兵庫運河に架かる橋で、昭和62年の架け替えの際、市民の要望により清盛橋と名付けられた。
欄干には源平合戦などのレリーフが取り付けられている。

レリーフは福原行幸(ぎょうこう)の様子。
後白河法皇、高倉上皇を伴い、平安京から福原へ出発する様子が描かれている。

「清盛がいなければ現在の兵庫の発展はなかった」と、平清盛を地域のシンボルとしてPRすることを決め、平成17年に清盛像(きよもりくん)を制作し、ここ入江橋の傍らに設置したと説明版に書いてある。

神戸港の西に兵庫港という港がある。
兵庫港は江戸時代まで良港として栄えた兵庫津の跡で、また平清盛が遷都とした福原京がある。

南北朝時代には戦いの中心となり、また北側には山陽道が通り、海陸の集散地でもあり交通の要衝でもあった。

兵庫城が城として機能していたのは短い期間で、明治時代以降には兵庫港の大規模な改修があり、また都市化により遺構は失われてしまった。
明治時代には兵庫県庁があった。

メリケンパーク
神戸ポートタワーの真下に広がる記念公園。

かつて日本の首都を兵庫においた男、清盛が最後に夢をかけた場所「福原」は現在の繁栄へとつながっている。

「神戸メリケンパークオリエンタルホテル」の沖を周遊する観光クルーズ船「コンチェルト」
ポートタワーのたもとにある中央突堤ターミナル「かもめりあ」からは、神戸港を周遊するクルーズ客船が各種就航。

付近には世界を巡る外航クルーズ客船が停泊することも多いので、無入港予定をチェックして優雅な姿を堪能するのもいい。

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古代大輪田泊へのアクセス、行き方歩き方

住所:神戸市兵庫区島上町2丁目1
JR兵庫駅下車 東へ徒歩約15分

神戸市営地下鉄中央市場前駅下車 北西へ徒歩約5分