熊野御幸記を歩く第二回、今回は住吉大社~信太山まで20㎞だ。
津守王子跡
津守王子跡としては2ヶ所が考えられる。
※津守廃寺跡--住吉区墨江4丁目付近
一般には、『津守王子』は墨江小学校付近にあったとされ、小学校正門横の植え込みに立つ「津守廃寺跡」の石碑が王子跡を示すというが、石碑の説明には津守王子についての言及はなく、真偽不明。
津守廃寺は資料がなく詳細不明だが、昭和15年の道路拡張工事と区画整理の際の発掘調査で、白鳳期の瓦などが出土したことから、この辺りに古代豪族・津守氏にからむ寺院があったと推定され、津守廃寺と名づけられた。
明治初年頃まで、その後身といわれる“津守寺”(901創建)が当小学校の地にあったことから、当地が津守廃寺跡とされている。
※住吉大社末社・新宮社--住吉区住吉2丁目付近
住吉大社の本殿東に末社数祠が並び、その端に『新宮社』(王子社との立て札あり)との小祠があり、説明には「熊野新宮に本社あり、熊野王子の一社と伝う」とある。
祭神はイザナギ尊・コトサカノオ命・ハヤタマ命で、いずれも熊野に祀られている神々である。
本来の住吉大神は海の神・航海の神だが、平安時代には何故か和歌の神として朝野の信仰を受け、熊野詣の上皇方は、ここに参詣して和歌を奉るのを恒例としていたという。
そんなことから、津守王子は当社内あるいはこの付近にあったのかもしれない。
この辺りは石碑が多く建つ。
路面に埋め込みの碑。
熊野詣は、苦しければ苦しいほど来世の御利益が約束される非常に困難な旅であった。
二流貴族である定家が不平不満を抱きながら後鳥羽院に同行した折の記録からは定家の人間的側面がよく見えてくる。
いつの世も「下流」は哀しい。
「百人一首」の歌人、藤原定家も、下級貴族の不満と呻吟と呪詛を綿々と56年間も綴った日記「明月記」を残した。
現代の下っ端役人なみに、揉み手すり手で猟官に励み、その俗っぽく滑稽なさもしさは、中世の奇観と言えよう。
「熊野御幸記」はその「明月記」からの抜抄である。
建仁元年(1201年)、後鳥羽上皇の熊野詣に定家が供奉した際の記録で、珍しや定家の直筆本ゆえに国宝に指定されている。
このあたり、おりおの。
明治時代中ごろの地図には現在の「遠里小野橋」(おりおのばし) はなく、 「大和橋」しかありません。
明治時代の熊野古道は大和橋まで戻って、そこからまっすぐ 堺に入っています。
しかし地図をよく見ると遠里小野のあたりで、点々で記述されたような 道らしきものがまっすぐ大和川を横断しています。
大和川は江戸時代に現在の位置に人為的に付け替えられています。
もともと上町台地の東側の河内湖に流入して、淀川と合流していました。
そのため、熊野街道はこのあたりでは大きな川を渡る必要がありませんでした。
のんびりと釣りを楽しむ。
境王子は現在の大阪府堺市堺区北田出井町付近にあったと推定されている。
この地域は、摂津国、河内国、和泉国の境があった場所で、境王子の名はこれに由来する。
また、「堺」(「境」の別表記)という地名も境王子が置かれた平安時代後期から歴史文献に登場するようになり(1081年(永保元年)の『藤原為房卿記』には境王子が「和泉堺之小堂」という名称で登場し、これが「堺」という地名の初出である)、境王子がその由来となったと考えられている。
旧向泉寺閼伽井碑文
第四十五代聖武天皇は深く佛教に帰依せられ、高僧行基に命じて天平年中にこの地に勅願寺院を建立された。
行基はまず閼伽井を得んとして一泉を掘りこれに向って金堂その他諸堂宇を建て多くの学僧を擁した大寺院であった。
この地は攝津、河内、和泉、三ケ國の界に位置していたので三國山遍照光院と号し、堂宇が泉に向っているところから向泉寺と名づけ、またこの寺が和泉の國に向っていたので、向泉寺と称したともいわれる。
この水は閼伽井の他王子、方違、東原天王の三社の祭祀用水に用い、また諸病に霊験あり、用うればたちまち平癒いわれたが永正年中に寺は兵火にあい市中に移って後は用いる人も次第に少なくなり遂に享保年間に廃寺となった。
寺名の由来ともなったこの井戸は堺市にとって歴史上意義深い史跡である。
昭和四十二年六月十七日
堺市教育委員会
榎土地区画整理組合
竹内街道
方違神社を南下した街道は三国ヶ丘高校の脇を通り竹之内街道と合流しました。
大仙稜の北に当たるこの辺りは西高野街道もあり古街道の合流地点だったのでしょう。
堺市内の熊野古道はよくわかっていません、したがって看板の表記のように熊野街道とせず、「熊野へ続く道」と苦肉の策。
堺東の西南2KMの地点に阪堺線の御陵前の駅がある。
このから海側に紀州街道、東側を小栗街道がそれぞれ南へ分岐している。
小栗街道は穢多道と言い、癩病(ハンセンシ病)患者などが通り、都の貴族はより東側の熊野古道を利用したと言われている。
小栗街道は国道26号線を越えて南下し、大鳥大社の東側に出る。
土居川
やがて御陵通りを西に進んだ街道は旧堺市街に入ります。
堺いは中世に栄え環濠を持った自治都市であった。
環濠は今では埋め立てられて痕跡が有りませんが、南宗寺南側の土居川は環濠の跡と言われています。
水の循環が悪く、川は異臭を放つ、何とかならないものか。
付近の人は良く平気で暮らせるものだ。
南宗寺の南西に山ノ口橋がありそこから堺市の熊野古道が始まる。
橋の欄干には熊野詣の絵が掲げられる。
石津神社
社伝では、八重事代主神が五色の石を携えてこの地に降臨したとしており、そこから石津の地名ができたという。
孝昭天皇7年8月10日に勅願により創建され、垂仁天皇の時代に天穂日命の子孫である野見宿禰を神主としたとしている。
大島郡の式内社石津太神社一座とあり、当社と石津太神社とが論社として、定まっていない。『泉州志』は在下石津村とし、当社を記載していない。
『大日本地名辞書』では逆に当社を式内として、下石津を記していない。
石津村が上下に分離した際、一方に本社、もう一方にお旅所などがあったのを、それぞれ氏神とした事によるのかも知れない。
この辺りまで来るとはっきりと「熊野古道」と表記されている。
大鳥大社の御祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と大鳥連祖神(オオトリムラジノミオヤノカミ)を祭っている、とあります。
社伝によると、日本武尊(景行天皇第二皇子)は東夷征伐の帰り道、伊勢でお亡くなりになったが白鳥に姿を変え、最後に来られたのがここだといいます。
等乃伎神社
巨木伝説があり、先史からの樹霊信仰と弥生時代の太陽信仰の聖地であったとされる。
聖神社の神域はかつては信太の森と呼ばれた。
安倍晴明の母、葛の葉の伝説で知られます。
ー泉井上神社の境内に湧く「和泉清水」が和泉の国名の元となったという。
篠田王子跡
『熊野御幸記』のよると定家らは、
「まづ松の下にて御禊あり 宗行御使となり シノタの明神に参ず」
とある。
この王子跡も注意しないと見落としてしまう。
平松王子は九十九王子の10番目で現存していない。
石碑が大阪府和泉市幸町3の放光池1号公園前に立っている。
和泉市伯太町5-22の伯太神社に合祀されている。
和泉市幸町、幸第二団地に平松王子跡の石碑と後鳥羽院の歌碑「平松は また雲深く立ちにけり 明けゆく鐘は なにはわたりに」。
この歌は正治2年(1200年)の平松御所での和歌会で詠まれたもの。