実は熊野古道大阪編は5月5日に第一回が始まったのですが、どうも歩き通す自信がなく、ブログを書き渋っていました。
先日第4回まで65㎞を何とか歩き通せたので何とかなるんじゃないかと掲載を始めた次第です。
熊野詣は城南宮(鳥羽離宮)を出立、舟で淀川を下り、ここ八軒屋浜に上陸、ここから陸路熊野を目指すことになります。
熊野古道というとどうも中辺路辺りがクローズアップされますが、どうせ歩くなら始発の八軒屋浜から歩きたいもの。
この日はあいにくの雨でした。
鳥羽離宮のことは「鳥羽離宮跡とその界隈」 にまとめてありますのでどうぞ。
熊野御幸前には陰陽師のト占により御精進、御進発の日が定められまず5日から1週間程の御精進は上皇はじめ随従する人々が魚、肉、葱、韮などを絶ってこもり鳥羽の離宮で院政を執っていたので、ここの御殿を精進屋に当てここから往復一月にも及ぶ信心の旅に出掛けたのです。
別の日に撮影した現在の八軒屋浜。
この旅は歌人藤原定家の熊野御幸記を辿る旅です。
40歳の定家にこの辺境は初めての地だった。
22歳の後鳥羽院はすでに3回、熊野に通っている。
定家は足に自信がない。
それでも同行したのは、院政実力者の内大臣、源通親が熊野に随従するため、なんとか取り入って権少将から中将に官位をあげてもらおうと切望したからだった。
熊野御幸記は現在入手できませんが、神坂次郎の歌人藤原定家の熊野御幸記が入手可能です。
三十石船は八軒家と京・伏見の間、十一里余(約四五㎞)を上り一日、下り半日で運航し、江戸時代を通して 貨客輸送の中心を占めた。
大阪天満橋にある永田屋昆布本店に八軒家船着場の石碑が建つ。
永田屋昆布本店さんで頂いた冊子は、かなりのスグレモノというか、ほとんど八軒家浜(八軒屋浜)を語り尽くしているのではないか、と思えてくるほど素晴らしいものです。
忘れずにいただいていきましょう。
御祓筋へ入る角に熊野街道の碑が立っている。
歌人藤原定家の苦難の熊野詣紀行、22日間にわたる苦行の始まりです。
実は私の苦行の始まりでもあります。
窪津王子(くぼつおうじ)は、熊野九十九王子の1番目。
八軒家船着場のすぐ近く、大阪府大阪市中央区天満橋付近にあった。
現在その跡には坐摩神社行宮が建っている。
また大阪市天王寺区堀越町の堀越神社の摂社・「熊野第一王子社」に合祀されている。
坂口王子は中央区神崎町であるが、南大江公園の南西に狸坂大明神が鎮座、側に朝日神明宮旧跡の碑がある。
坂口王子はこの公園の南西の筋向かい「狸坂」の上り口の教会のある場所とも言われる。
この狸坂の道は残っていないが、坂の途中に鎮座していた狸坂大明神の祠が移転してきている。
朝日神明宮旧跡の碑。
また朝日神明宮旧跡の南に樹齢六百年と推定される榎があり、榎木大明神の神祠(正一位稲荷大明神また巳(みい)さんで白蛇を祀る)が置かれている。
当地を坂口王子時跡とされる有力な説がある。一里塚だとする説もある。
なお、この木は榎ではなく槐(えんじゅ)だそうだ。
長年に渡り地元の人達に「エノキさん」「巳さん」と親しみ呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐(エンジュ)」という中国原産の樹である。
楠木正成公がお手植という説もあり、樹齢はおよそ六百五十年と言われる。
豊織の時代には当地も大坂城内で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋だった。
だから大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になったし、また地元の人達は土地神として「白蛇大明神」の祠を建てて代々この樹をお守りしてきた。
榎木大明神。
四天王寺南大門、熊野詣でにはまずこの場所にて熊野権現を礼拝し、道中の安全を祈り熊野古道を南に向かった。
熊野権現礼拝石の説明。
四天王寺の熊野権現礼拝石。
その昔、聖地熊野を目指した人々が、この礼拝石の上に立って手を合わせたと伝えられます。
彼方に鎮まる熊野権現に向かって手を合わせ、道中の安全を祈願したといわれます。
平らな石の表面は、人が上に立つには都合が良さそうです。
昔の旅は今とは比べものにならないほど過酷でした。
そのため、熊野権現礼拝石で祈願した後、熊野権現への道中で力尽きた人も多かったのではないでしょうか。
四天王寺は聖徳太子が建立した日本最古の官寺。
いくつかの門の中でも“西大門”は彼岸の中日、大阪湾に沈む夕陽が丁度、門の向こうに見えるため、西方極楽浄土を願う庶民の信仰を集めた。
この門は別名、極楽門という。
鐘の音に耳を澄まし、雑念を追い払ってしばし合掌…。
関連記事:「四天王寺に有難い夕陽を拝む」
安倍晴明神社
阿倍王子神社の飛び地とされる。
祭神は安倍晴明。
境域は余り広くはないが、当神社は、「晴明宮御社伝書」によれば平安朝時代の寛弘4年(1007年)、第66代一条天皇の創建とされている。
関連記事:陰陽師・安倍晴明の神秘は不滅
阿倍王子神社
「阿倍王子権現縁起」によれば、仁徳天皇のご創建と伝えられ、また一説には、往古この地を本拠とした阿倍氏の創建ともいわれています。
平安朝の時代より世をあげて熊野詣が盛んになると、熊野九十九王子社第二王子社として、阿倍野王子等と称せられ、たいへん賑っていた。
府下、唯一の旧地現存の王子社としても貴重な存在。
万代池
街道は池の西端に沿っている。
上町台地の浸食谷をせき止めてつくられた池と思われます。
明治の終りころまで、潅漑池として利用されていました。
昔は付近に人家はほとんどなく、魔物が住むと恐れられていましたが、聖徳太子が曼陀羅経をあげてしずめたことから「まんだら池」がなまったものと伝えられています。
第一回はここ住吉大社までです。
藤原定家の熊野御幸記によると歌会が行われたと。
あひおひの ひさしき色も 常磐にて
君が代まもる 住吉の松
等、三首が載せられている。
「御幸記」の定家はいじましい。
一行に先駆けて船や昼食、宿所を設営する役――現代でいえば「ロジ(スティクス)役」に励む。
席を温める暇もなく暁暗に起き出し、輿に乗ったり馬を馳せたり、御幸の先触れや途中の王子社での御経供養や奉幣と走りまわる。
夜は後鳥羽院のお召しで歌会の講師役、へとへとで詠んだ歌に「霜の心すでにもって髣髴(おぼろおぼろ)たり、卒爾の間、力及ばず」と傍書するほどだ。
やっと解放されて寝るのは「三間の萱葺屋で板敷無し」、窮屈平臥を強いられる。
ついに寝坊して白拍子の舞いを見損ねた。