特別公開銅閣寺こと大雲院

東山界隈を散策するといつも気になる独特な形状の塔、普段非公開の銅閣寺こと大雲院が「京の夏の旅」キャンペーンで現在公開中です!

今回ご紹介する”銅閣寺”こと、龍池山 大雲院は天正15年に織田信長、信忠親子の菩提を弔う為に正親町天皇の勅命により建てられた寺院。
寺の名前は織田信忠の戒名「大雲院殿三品羽林仙巌大居士」から取られた”大雲院”です。

ちなみに金閣寺・銀閣寺・平等院などの屋根には鳳凰が鎮座していますが、祇園閣の鉾先は鶴なのです!
祇園閣を建てた大倉喜八郎の本名鶴吉(鶴彦)に因んで鶴が飾られているとのこと。

創建当初の大雲院は御池御所(現在の烏丸二条)の位置にあり、その後豊臣秀吉の手により寺町四条へと移転。
そして昭和48年に現在の祇園・東山界隈の位置に移転したのですが、実は最後に移転したこの場所が、とある人物の別荘地だったのです。

その人こそ、一代で巨万の富を築き、現在の大成建設や帝国ホテルの創始者でもある人物、大倉喜八郎氏。現在の大雲院はもともと大倉喜八郎氏の別邸「真葛荘(まくずそう)」の一部だったのです。

普段見慣れている正面の入口は総門、今回は内部から。
東京から移築されたもので、旧宮家の門と伝えられているらしい↓

が、今回の特別公開の入口はここじゃなくて、南門。
南門は四条寺町から移築されたものだそうです。

本堂の御本尊は阿弥陀如来坐像で江戸時代の作。
御本尊の内部に別の阿弥陀如来像が納められていて、こちらは室町~桃山時代の作。
創建当時の御本尊とも考えられているが、詳細は不明。

本堂の正面横には涅槃像。

豊臣秀頼が北野神社に寄進した鐘楼、祇園感神院(現・八坂神社)にあった梵鐘(ぼんしょう)は、維新後の神仏分離によって無用とされていたものを島津家(宮崎県)が佐土原藩士の菩提を弔うため大雲院に寄進されたもの。

八坂神社が明治まで祇園感神院と呼ばれていたことご存知でしたか?

元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改められたものとのことです。

大雲院は慶長年間(1596~1615)に日向国佐土原城城主・島津以久の帰依により、寄進を受けている。

以久は、天下普請の命により篠山城建築に駆り出され、慶長15年(1610)上洛中に病死しとされている。

この時に大雲院の開山 貞安上人に世話になったことから、佐土原藩島津氏は曹洞宗から浄土宗に宗旨替えし、以久の墓も大雲院に建てられている。

大雲院と佐土原藩のつながりは幕末まで続く。

大雲院は佐土原藩の京都における本陣の役割を果たしている。
元治元年(1864)7月19日の禁門の変の後に発生したどんどん焼けによって、京都御所の西側から南東方向の広い範囲にかけての町は焼失している。

佐土原藩は大雲院を本陣としていたため、この一帯の延焼を防いだと謂われている。

祇園閣入口上の”祇園閣”の文字は西園寺公望公の書いたものだそうです。
ここから先は撮影禁止です。

一層から三層への通路壁面には、中国・敦煌莫高窟に描かれている壁画を模写した壁画が描かれています。

残念ながら祇園閣の楼上からは現在撮影が禁止となっています。

信長公父子の墓所への参道。

大雲院は、1587年、正親町天皇の命で、織田信長・信忠親子の菩提を弔う為に建てられた寺。
信忠の法名にちなんで大雲院と呼ばれる。

なぜかあの盗賊石川五右衛門の墓が。
一説には、釜茹での刑になる前、市中引き回しにされた際に貞安上人と出会い、法を説かれ感動し、「処刑後に自分を供養して欲しい」とお願いしたとか。

見慣れた祇園閣の風景。

実は普段は非公開の寺院です。
年に1度も公開されない時もありますし、気になる方は季節毎の京都の特別拝観キャンペーンをチェックしておくといいですね。

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大雲院へのアクセス、行き方歩き方
住所:京都市東山区祇園町南側

お問い合わせ:公益社団法人京都市観光協会 075-752-7070

市206「東山安井」下車 徒歩5分
京阪電車「祇園四条」下車 徒15分