明智光秀が築いた名城 福知山城

先日来の大雨災害で訪問が危ぶまれたが何とか訪問にこぎつけた。
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観測史上最大の大豪雨で町が完全に水没!法川(旧堀)の辺りで間まだ懸命の復旧作業が続けられている。

親水公園から本丸に復元された望楼型天守を望む。

明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと大修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。

明智光秀は本能寺の変では勝利したが、山崎の戦いでは敗北し後に暗殺された。明智光秀の在城期間はわずか3年間だけであった。

大天守(鉄筋コンクリート造、竣工・昭和61年11月9日)
外観3層の望楼型天守。

二重櫓に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた姿は初期天守閣の様式をよく表わしている。
内部は4階で、福知山市郷土資料館・産業館となっている。

銅門番所、この建物は、福知山城二の丸の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で、当時の面影をしのばせる城内の建築物。
大正時代のはじめに天守台に移築され、さらに天守閣の再建に伴いこの場所に移された

本丸石垣下奥の石垣にも転用石が多く使われている。

福知山城天守閣復元鯱瓦。

本丸、天守の東側に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸が残っている。
この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだものである。

井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。
高所に関わらず水深37mもあり、現在も満々と水をたたえている。

伝承ではこの井戸に抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがある。

第二次世界大戦前まで二ノ丸の北側に深い洞穴があったようだが、奥が行き詰っており氷室であったという指摘もある。

天守から福知山市街を望む。

大天守から小天守越しに北方向を望む、城下通りと由良川に架かる音無瀬(おとなせ)橋。

錦絵四天王大江山入之図。

福知山城の本丸には朝暉神社(あさひじんじゃ)があります。

1669年(寛文9年)6月に入部した、福知山初代藩主である朽木稙昌(くつきたねまさ)が父・稙綱(たねつな)を藩祖として城中に祀ったことにはじまり、11代藩主・綱條(つなえだ)のときに一社を建立して朝暉神社と号しました。

廃藩により城外に移されましたが、1881年(明治14年)に町民らの要望によって天守台跡に再建されました。
さらに1986年(昭和61年)の天守再建にともなって、現在の位置に移築されました。

現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。

天守台から本丸にかけての石垣は、400年前の光秀築城当時の物で、自然石の野面積(のづらづみ)で、石垣の名人と言われた近江穴太(あのう)衆が得意とした穴太積様式が取り入れられています。

これは、不ぞろいな大きさの細長い石を奥のほうで組み合わせた後、隙間に細かい小石をはめ込んで補強するというもので、大変丈夫でした。

石垣には五輪塔や宝篋印塔などがそのまま使われていて、その数は185個とも…

左から大天守、続櫓、小天守(東面)。

登城路(右側・坂道)をUターンして石垣下を奥に行った所に転用石の展示場が設けてあります。
石垣に使用された石仏 これだけ大量の石仏使用は、日本のお城の中では、この福知山城と、光秀が先生となって築城方法を教えたと言われる筒井順慶の大和郡山城だけだそうです。

光秀の出自はよくわからない部分もあるが、清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。
生年は『西教寺過去帳』『明智軍記』『細川家文書』からは享禄元年(1528年)とされる。
場所は岐阜県可児市明智の明智城が有力とされる。

青年期の履歴は不明な点が多い。
通説によれば、光秀は美濃国の守護土岐氏の一族で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。

その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉義景に仕えたという。

永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって襲殺されると、その弟義昭が姉婿である若狭国守護武田義統のもとに逃れ、さらに朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。

義景の母は若狭武田氏の出であり、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられることから、義昭の接待役を命じられたといわれる。
義昭が上洛を期待しても義景は動かず、そこで義昭は斎藤氏から美濃を奪取した織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるよう、光秀を通じて要請した。

光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。

本能寺の変の原因説は諸説あっていまだに定説がないが気になる説を2,3あげておく。

四国説
信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。

光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。

大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。

家康黒幕説
家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。

大阪と京を結んだ水陸の要所 淀城に解説記事があるので参照されたい。

「神君伊賀越え」は予定通りのルートであり、苦難とされたのは、予定通りの行動であることを世間に隠すためのカモフラージュというものである。

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福知山城へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都府 福知山市 字内記(内記一丁目)5
電話:0773-23-9564 福知山城(郷土資料館)

山陰本線「福知山駅」下車徒歩約15分、又は京都交通か西日本JRバス「福知山城公園前」下車