信玄公ゆかりの甲斐善光寺

甲信越

永禄元年(1558年)、甲斐国国主武田信玄によって山梨郡板垣郷に創建された。
開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空。

山門、本堂とともに焼失したがのちに再建され現在のものは桁行およそ17メートル、梁間およそ7メートル、棟高およそ15メートルとなっている。

山門も本堂と同日に重要文化財に指定された。

額縁にして覗くときれいだね。

門の両脇には未完成の金剛力士(仁王)像が祀られている。

本堂、当初永禄8年(1565年)に完成し桁行およそ50メートル、梁間がおよそ22メートル、高さがおよそ23メートルと信濃善光寺のものとほぼ同じくらいの大きさであったが宝暦4年(1754年)2月の火災によって失われ、現在の本堂は寛政8年(1796年)8月に再建されたものである。

寛政8年の再建は明和3年(1766年)まで30年を要し、このことから工事の遅延を意味する「善光寺普請」の言葉が生じたという。

境内にも沢山の地蔵が。

地蔵堂。

金堂の左には銅造毘盧遮那仏座像がある。
江戸時代後期作の山梨県内における古い大仏では最大といわれる。

池畔に「芭蕉翁月景塚」の石碑が立ち「月かげや 四門四宗もただひとつ」と刻まれている。
更科紀行で信州善光寺にて詠んだ一句である。

整然と並んだ地蔵さん。

お咳婆さんの石、昔、一人の老婆が村はずれに倒れていて、村人がその老婆を助けました。
元気になった老婆は、助けてくれたお礼にと、咳で苦しむ子ども達の病気を治してくれました。

その頃、咳は一番怖ろしい病気で死亡する人も多かったことから不治の病といわれて、村人達から恐れられていました。
その後、その咳の病気を治した老婆も、歳には勝てず、死んでしまいました。

村人は、村の守り神として、石を立てて祀りました。
それからというもの、村人達は、咳の病気にかかると、このお咳婆さんに願を掛けるようになり、病気が治ると老婆の好物だっアメを供えました。

今日のお昼は山梨名物のほうとうです、朝ドラでもおなじみ。

禅僧の手により中国から日本にもたらされた「饂飩(はくたく・はうたう)」が語源と言われ、武田信玄が野戦食として用いたことから甲州地方に広く根付いたと言われています。

山梨県内ではほうとうにカボチャを入れることが多く、全国的に見られる冬至のカボチャの時にもほうとうで食する。

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甲斐善光寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:山梨県甲府市善光寺3-36-1

JR中央線酒折駅から徒歩15分