キリシタン大名高山右近の高槻城

大阪府

室町時代は入江氏の居城であったが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。
天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれた。

豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられた。
内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わった

「カトリック高槻教会」は高山右近記念聖堂とも呼ばれている。
右近が帰天したマニラの聖母大聖堂を模して建てられた教会である。

記念聖堂の敷地内には高山右近の顕彰碑も建てられている。

教会の門を入って直ぐ左手にイタリアの彫刻家ニコラ・アルギィニによって彫られた大理石の高山右近像がある。
これはローマの高名な教会関係者から寄贈されたものといわれている。

高槻市商工会議所の南側に「高山右近天主教会堂跡」と彫られた石柱が建てられている。
かつて高山右近の教会があったとされている。

商工会議所会館前に置かれたこの花崗岩の石は、厩郭の枡形門の石垣石とのこと。
昭和60年(1985)、市立第一中学校体育館の新築工事に先立つ発掘調査により、近世の東側内堀跡から出土したもので、明治7年(1874)の高槻城破却時に堀底へ落ち込んだものと思われるとのこと。

高槻市立しろあと歴史館は高槻城三の丸跡に建ち、江戸時代の高槻の歴史資料を、多彩な資料や映像・模型のほかマンガの解説も加えて、わかりやすく紹介している。

高槻城の貴重な遺構のひとつ、本行寺の山門として移築された高麗門。

藤井竹外邸跡。
藤井竹外は摂津高槻藩の武士の家に生まれる。
詩を頼山陽に学び、七言絶句を得意とすることから「絶句竹外」と称される。

梁川星巌、広瀬淡窓らとも親交があった。
詩集に『竹外二十八字詩』など。
武士としては鉄砲の名手であったというが、晩年は京都に隠居し、詩酒に耽る生活を送る。

能見神社の創始は宇多天皇(887~897年)の代とされている。
その後、享禄、天文年間(1528~1554年)の頃には祭礼も盛大に行われるようになり、歴代の高槻城主の信仰も篤かったという。
高槻城主の和田惟政も篤く信仰していたようであるが、その後、城主となった高山右近は神社を取り壊してしまった。

元和5年(1619年)に当時の高槻城主松平紀伊守によって神社は復興され、更に慶安2年(1649年)には永井直清が城主になり、神社の例祭も盛大に行われるようになったようである。

永井家十一代藩主直輝が嘉永元年(1848)に初代直清の入城二百年を記念して永井神社内に造立した唐門。

高槻城東大手門跡は高槻城内(三ノ丸)への最も重要な出入り口であった東大手にあたる。
門の内には家老や郡奉行などの屋敷が並び、参勤交代などで江戸や京都に向かうときは、供揃えをして、ここから出門したそうである。

八幡大神宮の創建は不詳だが、洪水により応神天皇の像と白羽矢がこの地に流れ着き、それを祀ったのが起こりという。
江戸時代初期の高槻城主・松平家信は、社領を寄進するほど厚く敬い、その後も高槻城の守護神として歴代城主の信仰が厚かった。
戦国期にはキリシタンの高山氏の兵火で焼失したこともある。

城跡公園内にある模擬天守台。

模擬天守台の脇に建つ高山右近像
戦国末期の高槻城主でキリシタン大名でもあった右近は、天文21(1552)年頃に、摂津高山(現豊能郡豊野町)生まれたとされている。 

永禄7(1564)年、父の居城沢城(奈良県宇陀郡榛原町)で洗礼をうける。 
元亀4(1573)年、高槻城主となる。 
天正2(1574)年、右近は城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の伝道に努める。 
天正10(1582)年の本能寺の変後の山崎の合戦では、秀吉に仕え功績を挙げる。

天正13(1585)年、右近は明石へ移封され、高槻城主であったのは12年間でした。 
その後、秀吉がバテレン追放令を発するが、右近は改宗を拒否し領地を没収される。 
慶長19(1614)年、禁教令を出した徳川幕府により国外追放処分となり、マニラ到着の約40日後に熱病で没する。

高槻市によって新たに建てられた「高槻城跡」の城址碑。

高槻一中の石垣が終る辺りの西側に「高槻城跡碑」があります。
明治7(1874)年の鉄道敷設に伴って高槻城は破却されました。

城郭の石垣はほとんどが鉄道敷設資材として使用されてしまったそうで、残るは「しろあと歴史館」にある3個だけだそうです。

城跡碑の東側ある、古い赤レンガの門柱とコンクリート造りの物体は、元工兵第四聯隊(中部第29部隊)の営門と門衛所です。

兵舎は明治42年から昭和20年まで存在していたそうですが、現在は改築されて学校、公園などに利用されている。

昭和47年9月に高槻市指定文化財の建造物第1号に指定された笹井家住宅(旧・紺屋町)は江戸時代中期の町家建築で、妻入り本瓦葺は市内にある瓦屋根の中で最も古い形式手法を残している点で貴重とされます。

上宮天満宮は菅原道真を主祭神とし、武日照命・野見宿禰を配祀する。
「大宰府天満宮に次いで日本で2番目に古い天満宮」を称している。

今日はちょうど天神祭、毎年、2月25日と26日にお祭りがある。
特設ステージでライブがあったり多数の屋台が出るなど、高槻最大のお祭といえるほどの規模で、高槻市民の楽しみになっている。

拝殿には次々と参拝者が訪れる。

竹製の本殿。

菅原道真にちなんであちこちに梅が植えられているがこのところの寒波により開花は遅れ気味。

細川ガラシャと高山右近の出会い

玉子は勝龍寺城で高山右近と出会い、詳しい話ではないが、肉体と魂の話を聞かされ、目から鱗の落ちる思いがした。
これが玉子にとって、キリスト教との初めての接触だった。
(また右近様にお会いたいしたい。そして、聞きたい)
と思っても、それは叶わぬことだ。

2年間の味土野の隠遁生活から新たに作られた玉造の屋敷へ迎えられた玉子はびっくりした。
父に哭き、子に泣いている間、夫は夜な夜な女を替えて性欲を満たし、貪っていたとは。
玉子の中で、音を立てて崩れていくのがあった。
忠興への失望であ。

ところがある日、高槻城主・高山右近がやってきた。
勝龍寺城時代以来である。
既に洗礼名ジェストを持っている右近は、忠興夫妻にキリスト教への教えを説いた。
それは心に渇きを覚えている玉子に、深い感銘を与えた。
(信仰によって救われる)

これは、玉子にとって新しい生き甲斐である。
そこで教会へ出向きたいが、忠興がそれを許さない。
とにかく美しい玉子を人目に曝したくないのだ・・・・・・


戦国の「いい妻」「ダメな妻」

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高槻城跡へのアクセス。、行き方歩き方

大阪府高槻市城内町3
城跡公園管理事務所(電話:072-671-0024)
JR東海道本線高槻駅 – 徒歩約10分
阪急電鉄京都線高槻市駅 – 徒歩約10分