北御堂と南御堂

大阪府

東側の御堂筋は、北御堂と南御堂(真宗大谷派 難波別院)を繋ぐ道であることに由来する。

正式名称は「浄土真宗本願寺派 本願寺津村別院」。

別院名の「津村」とは摂津国西成郡の郷名で、入り江であった古代の円江(つぶらえ)から転じたと言われる。
市街化されて船場となった後も、明治5年(1872年)まで当院北に位置する御霊神社にかけての町名となった(当院北側の備後町通沿いは津村南之町)。

大阪の目抜き通り、御堂筋のすぐ近くにお目見えした巨大な「三角形」――。
北御堂(本願寺津村別院)の屋根瓦をふき替える工事の素屋根(仮の屋根)だ。

南御堂(難波別院)と共に、御堂筋の名の由来になった歴史ある寺院。
大阪大空襲で全焼した別院が1964年に再建されて以来、初めてのふき替えだという。阪神大震災でも一部の瓦が落ちるなど損傷しており、耐震性を高める工事でもあるという。
9月下旬には終了し、新しい瓦屋根が姿を現す予定だ。

真宗大谷派難波別院(しんしゅうおおたにはなんばべついん)は摂津国西成郡上難波村の旧地であったことに由来する。

親鸞聖人像

蓮如上人像

難波別院(南御堂)の創建は、今から400年以上前の安土桃山時代の末、1595年(文禄4)に、本願寺第12代・教如上人(1558~1614)が大坂渡辺の地に「大谷本願寺」を建立したことに始まります。

東日本大震災の復興と支援の思いを全国でつなぐ勿忘(わすれな)の鐘。

難波別院の境内には、開基である教如上人が大谷本願寺を創建された際、1596年(文禄5)に鋳造された「大谷本願寺」銘の梵鐘が今も残り、教如上人のご苦労とその遺徳を伝えています。

旅に病んで 夢は 枯野を かけめぐる 

松尾芭蕉は 大阪へ 2回 来ている。 
最初の滞在は 元禄元年(1688年)4月13日から19日まで 滞在した。

第2回目は 元禄七年(1694年) 9月9日から10月12日までである。 
大阪の酒堂と之道の対立を調停するのが主な目的であった。
長崎まで 行く計画であったが 大阪が芭蕉翁終焉(しゅうえん)の地となった。 
芭蕉は 明石より 西へは 旅をしなかった。

俳聖松尾芭蕉は 南御堂の門前にあった花屋仁右衛門( はなやにえもん)の離れ座敷で元禄七年(1694年)10月12日 午後4時頃、去来、基角など10名も門人に見守られ51歳で亡くなった。

「 此附近 芭蕉翁終焉の地 」という記念碑が 御堂筋の緑地帯の中にある。
南御堂前の御堂筋緑地帯に「花屋仁左衛門宅跡」がある。

大阪市南御堂にて(12月) 山口誓子<1901~1994>
「金色の御堂に芭蕉忌を修す」
南御堂では毎年10月12日の芭蕉忌に俳句同好の士が集まり盛大な句会を開いている。

阿波野青畝の句碑もあった。
翁忌に行かむ晴れても時雨れても

今に残る東西本願寺の対立は豊臣の後に天下を狙う家康が、本願寺派の力を半減させる為と豊臣に対する策謀の為に起こした事と考えられている。

本願寺の東西分裂の根本的な原因は、顕如と息子の教如の不和にあります。
小説『信長が宿敵 本願寺顕如』でも息子の教如とほとんどコミュニケーションが取れない顕如の父親像が描かれています。
これは現代の父たちが読んでも共感できる部分かもしれません。

石山合戦のとき、顕如は織田信長との和睦を受入れ、石山本願寺から撤退しますが、息子の教如は徹底抗戦を主張します。
このことを巡って顕如は教如を義絶します(後に赦免)。
このときから教団内部は穏健派と強硬派に分かれ、分裂の火種が生じます。

1592年、顕如の死去にともない教如が本願寺を継承します。
この時、側近を強硬派で固めたため、穏健派の不満が噴出します。
穏健派は天下人となった豊臣秀吉に働きかけます。
その結果、1593年に秀吉は異母弟の准如に法主の座を譲ることを命じます。

その後、1600年関ヶ原の戦いに勝利し、天下人になった徳川家康は戦に協力した教如を宗主に再任させようと考えます。
しかし、一向宗にはかつて三河一向一揆で滅亡寸前まで追い込まれた経験があります。
そこで重臣の本多正信の「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」という提案を採用し、本願寺の分立を企図します。

ところで、この本多正信は、若い頃、三河一向一揆では一向宗側に参加し、家康と敵対しました。
一揆が鎮圧されると、正信は三河を出奔し各地を放浪します。
その後、再び家康に仕えたとき、今度は一向宗を分裂させ、その力を弱体化させようと考えたのです。
一体、正信はどんな心境の変化があって、そうした行動に出たのか、とても気になります。
事実、多くの作家がこの正信の行動を小説などで描いています。

こうして、家康は本多正信の意見を取り入れ、教如に京都七条烏丸に寺領を寄進し、1603年に東本願寺が分立します。
准如が継いだ本願寺は西本願寺と呼ばれるようになります。

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南北御堂へのアクセス、行き方歩き方

北御堂公式サイト
地下鉄御堂筋線 「本町」駅下車 A階段・②番出口 左側スグ
南御堂公式サイト
地下鉄御堂筋線本町駅8号出口南へ200m
地下鉄中央線本町駅13号出口南へ50m