海上の名城と言われた桑名城

桑名城は桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城である。
城の北辺には東海道桑名宿「七里の渡し」があり、交通の要衝となっていた。
歌川広重の東海道五十三次「桑名」に往時の城が描かれている。

長良川河口堰
その建設に当たり、利水や治水の観点から建設を望む声がある一方、長良川の生態系や漁業などへの悪影響などが懸念され反対運動が起こり、建設の是非をめぐる論争が発生した。

手前は揖斐川。

ところで木曽の中乗りさんの意味を知っていますか?
歌詞中の「中乗りさん」(なかのりさん)は諸説あるが、材木を筏に組んで木曽川を下り運搬する人たちで、先頭を「舳乗り」(へのり)、後ろを「艫乗り」(とものり)、真ん中を「中乗り」といったというのが一般的である。

「七里の渡し」から見た蟠龍櫓。

「七里の渡し」跡
七里の渡しは東海道における唯一の海上路で、1601年(慶長6年)の東海道制定の際に定められた。

七里の渡しの名称は、移動距離が7里であったことに由来する。
渡し船によって移動し、所要時間は約4時間であった。

「桑名の渡し」、「熱田の渡し」、「宮の渡し」、「間遠の渡し」などとも言った。
天候の悪化などにより、海難事故がしばしば発生する東海道の難所の一つであった。

「七里の渡し」跡碑。

歌川広重の東海道五十三次「桑名」。

桑名宗社(くわなそうじゃ)
桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社から成り、桑名の総鎮守社として篤く崇敬されている。

寛文年間鋳造の青銅の大鳥居が残る

左は【しるべいし】

「しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まるところに建てられました。
東京浅草観音のしるべいしは有名です。

自分の子供が迷子になると、左側面の「たずぬるかた」に子供の特徴や服装などを書いて貼ります。

この子供に心当たりがある人は右側面の「おしへるかた」へ子供の居た場所などを書いて貼ります。

正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されています。

積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎのニ方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多く見られます。

外堀から二の丸跡を望む。

右手に見えるのは二の丸橋。

德川四天王のひとり、本多忠勝の銅像は鹿角脇立兜に蜻蛉切(とんぼきり)の槍とともに。
槍の刃先にトンボが止まっただけで真っ二つになった事から蜻蛉切の名がつきました。

徳川四天王(とくがわしてんのう)は、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。
対して織田四天王は柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀。

蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)

桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。
このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。

歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。

蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。

蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。

この絵では、単層入母屋造たんそういりもやづくりの櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。

「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。
龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟びょうなどの装飾モチーフとして広く用いられています。

1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。

工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。

露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。

40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。

工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川家からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。

この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。
薩摩藩は最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。

分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、平田は藩への多大な負担の責任を取り自害、享年50。

遺体は山城国伏見の大黒寺に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められる。
藩主島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没している。

辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。

明治になって、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケらにより近代土木による三川分流工事が完成し、現在の木曽三川の原形がつくられました。

しかし現在の世でも伊勢湾台風や1976年9月の長良川決壊が記憶に新しい。
その河口に位置するのが桑名です。
七里の渡し跡は今でも残っています。

マンホールのデザイン
桑名の折鶴のデザイン。
一枚の紙で、何羽も繋いで折る連鶴の折り方は、桑名の無形文化財に指定されているそうです。

マンホールの蓋
浮世絵-歌川(安藤)広重「東海道五十三次・桑名」の一部のデザインです。

松平定敬(さだあき)は最後の藩主 戊辰戦争では最後は上海まで逃げた。
桑名藩では自分勝手な殿様を見捨てて、くじ引きで方針を決めたという。

慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると、慶喜に従い江戸の霊巌寺にて謹慎した。

江戸城では抗戦派と恭順派が争い、大久保一翁と勝海舟により恭順工作が進められていた。
さらに、桑名藩は会津と並んで新政府からは敵視されており(朝敵5等級の認定のうち、第1等が徳川慶喜、第2等が松平容保と定敬)、国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から、先代当主の遺児・万之助(定教)を担いで恭順することを家老たちが決めていた。

そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の帰国は困難な状況となった。
定敬は一翁から桑名藩の飛び地領である越後国柏崎へ赴くことを勧められ、横浜からプロイセン船「コスタリカ号」で柏崎へ渡る。

鯨波戦争では後方連絡の都合から指揮を家臣に任せて柏崎から会津へ移動した。
その後は会津若松城で兄の容保と再会し、仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡った。

箱館戦争終結前の明治2年(1869年)4月、従者とともにアメリカ船に乗り横浜を経て上海へ渡るも、路銀が無くなったため外国への逃亡を断念して同年5月18日には横浜へ戻り降伏、明治5年(1872年)1月6日に赦免される。

のちに米国に留学し、外務省に勤めてイタリア公使館二度に勤務したる
養子の殿様が実兄に従い迷走したので藩士に多くの犠牲を出したのだが、殿様の方は楽しく余生を送っているのだからいい気なものだ。

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桑名城へのアクセス、行き方歩き方

住所:三重県桑名市吉之丸9
電話:0594-24-1231 桑名市観光協会 

JR関西本線他「桑名駅」より徒歩20分

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