島原に おもてなしの「角屋」を訪ねる

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角屋(すみや)は、もと京都・島原花街の揚屋。

天正17年(1589年)、豊臣秀吉によって柳馬場二条に傾城町「柳町」が開かれ、初代徳右衛門が角屋の営業を始める。

慶長7年(1602年)、柳町は突然の移転を強いられ、角屋も六条三筋町へ移転を余儀なくされた。

更に寛永18年(1641年)、再度柳町は移転となり、角屋は二代目徳右衛門によって現在地の島原へ移された。

明治5年(1872年)まで営業した後、お茶屋に編入された。
昭和60年(1985年)まで「松の間」を宴会に使用。

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大火後、門は再建されたが、慶応3年(1867)5月には再び建て替えられた。
これが現在の大門である。

この門は本柱上の屋根のほかに後方の控柱上にも小屋根をのせた高麗門で前には「出口の柳」が植えられ「さらば垣」がめぐられて、今日も当時の趣を伝えており島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重である。

大門脇には幕末の女流歌人蓮月尼(1791~1875)が、島原大門の柳を
『嶋原のでぐちのやなぎをみてなつかしき  やなぎのまゆの春風に  なびくほかげや  さとの夕ぐれ』
と和歌に遺している。

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鮮やかな角屋の赤壁は、社寺の書院や客殿に使用された高級赤壁と同じものらしい。
ここは並みの建物ではない、ということを示したのではないかと、館でもらったパンフレットには書かれている。

家紋の蔓三つ(つるみつつた)の五幅暖簾。

新選組が付けたという柱の刀傷。

2階にも刀傷が何カ所かあるが、2階は撮影禁止になっており残念ですが画像はありません。
もともと新選組のようなものが入れる場所ではないのだが、見回り組と称して入ったらしい。

入口には酔客を送り届けるための駕籠が展示されています。

台所、竈の神、三宝清荒を祀る。

台所、竈、白漆喰の磨き竈。

水屋(sink)の上には往時使用されていた銅製の鍋などが並べられている。

調理場の上には調理で出る煙を外に排出するための大きな窓が設けられている。
ひもを引くと窓が開けられる仕組みになっている。

調理場の天井。
昔は換気扇が無かったからとても高い~!

土間より座敷を望む、真ん中の柱は後で補強のため入れたもの。
右奥に帳場が見える。

松の間より観る臥龍の松。

現在は3本の木でつないでいる。
初代は1947年に吉井勇の八幡寶青庵より移植される。

その後、10年ほどで枯れたため、3代目が1958年に新たに移植された。
1994年に4本のうちの1本が枯れた。

吉井勇は歌を残している。
「島原の角屋の塵はなつかしや元禄の塵享保の塵」

都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)

大座敷「松の間」で遊興にふける人達と、庭に降り積もる雪を丸めたり、雪投げをしている人達。

禿(かむろ)が雪を丸めている姿も見える。
松にも雪が積もっている。

国貞や広重の浮世絵にも描かれたので京名所として江戸でもしられる。

右上には2階「青貝の間」の露台(バルコニー)から庭の様子を眺めている人達がいる。青貝の間は17畳あり、壁、床の間、襖、障子にいたるまで青貝が鏤(ちり)ばめられてある。

角屋の座敷中最も格が高いとされる。
この図会は江戸時代の寛政11年(1799)に描かれた。

「曲木亭(きょくぼくてい)」(重文)、その奥の「清隠斎茶室」(重文)、かつて樹齢250年から300年という松が茶室の脇に生えていた。

飛び石伝いに茶室に通ったのかな。

ここの掛け軸は、ちょいちょい変わるみたいです。
これは「藤下双鯉図」

江戸時代中期には島原でも俳諧が盛んになり当時の角屋当主(七代目、俳名徳屋)は与謝蕪村を師として招いている。

その蕪村がここに残した「紅白梅図」は国の重要文化財として当美術館に展示されている。

他、天明年間前後に制作された円山応挙、石田幽汀などの襖絵も残っている。

酔った人が宴会場から離れ酔い覚ましをする場所。

中庭、飛石、苔、植栽、蹲踞、石灯籠などにより構成される。

中庭は網代の間の横にある限られたスペースに創られていますが、灯籠の形と位置、苔と飛び石の配置、どれを見ても完全なる隙がない造形。
狭さを超えた深さを感じさせる名庭です。

網代の間
付け書院の明かり障子。
大きな開口部の障子の桟の整然とした様子。

網代の間、天井の大長枌(へぎ)網代組。

2階に上がると、表棟には北から南へ「緞子(どんす)の間」、「翠簾口(みすぐち)の間」、「翠簾の間」、「扇の間」があり、奥棟には「檜垣の間」、装飾に青貝を用いた「青貝の間」などがあり、「青貝の間」には露台(バルコニー)が付属する。

各部屋は装飾や意匠に変化をつけ、数少ない揚屋建築の遺例として、文化的価値が高く評価されている。
2階は撮影禁止で画像はありません。

刀掛、12段あり、ここには太刀を置いた。
刀は刀箪笥に収めた。

刀箪笥

台所、箱階段、押し入れ板戸は堅舞良戸、帯桟は引手が丸形、木瓜形

幕末に、西郷隆盛が訪れた際に使ったという盥(たらい)。

1945年、太平洋戦争中に、建物の強制疎開が行われた。
角屋は山陰線保護のために、取り壊しの予定となっていた。

京都市の担当者が訪れた際に、明治維新の元勲、西郷らも利用したと説明し取り壊しは一時延期となる。

その後、敗戦により角屋は存続となる。
この盥は、角屋を守った盥といわれている。

中戸口前には2本の「槐(えんじゅ)」の木が植えられている。

槐は縁起の良い木といわれているらしく、縁起の良い門をくぐる、という発想かな。

表に回ると屋根の上まで聳える。。

前庭、天水溜、家門が入っている。
上に天水桶、木枠に屋根付き。

輪違屋(わちがいや)は、現在も営業されている京都の花街、島原の置屋兼お茶屋。
置屋として創業当時の名は「養花楼」。

お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。
現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となった。

かつては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。

表に「観覧謝絶」の札がある(いわゆる「一見さんおことわり」の店である)。

新選組とのかかわり

「青貝の間」の床柱には新選組の芹沢鴨が酔っ払ってつけた刀傷が残る。

水口藩公用方が会津藩邸にて会津藩公用方に新選組の所業の悪さを訴えたことに始まる。それを聞きつけた芹沢が、永倉新八・原田左之助・井上源三郎・武田観柳斎の4人を差し向け、当事者の身柄引き渡しを水口藩に求めた。

水口藩はこれに驚き、平身低頭謝罪し、詫び証文を書いて、その場を納めた。

しかし、詫び証文を書いたことが水口藩主の耳に達せば、事と次第によれば公用方の断罪も逃れられなくなる。

そこで二条通りに直心影流道場を開いている戸田一心斎(栄之助)を通じ、証文の返却を依頼した。
新選組側より、会議の場所を提供すればそこで返却する、との回答があった。
体のいい宴会の要求である。

翌日、角屋にて宴席が設けられた。
席上、証文は問題なく返却されたが、宴もたけなわとなった席上で、酒がまわると酒乱となる芹沢が店の対応に腹を立て、遂に暴れ始めた。

自慢の鉄扇を振り回し、席上に出ていた膳はもとより、店内の食器や什器を悉く叩き割り、挙げ句の果てには廊下の手摺りを外し酒樽に叩きつけて帳場を酒浸しにしてしまった。
そして最後に、店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を申し渡し、意気揚々と引き上げたという。

同年9月18日、会津藩の催した角屋での宴会で泥酔して屯所に帰宅した芹沢は、寝込みを近藤勇一派に襲われて絶命した(同夜、ともにいた芹沢の妾と平山五郎も殺害された。また、 平間重助と芸妓2名はこの難を逃れた)。

「太夫」と「かしの式」について

「太夫」とは島原の傾城(けいせい・遊宴のもてなしを公認された女性)の中でも最高位とされ、その名称は慶長年間(1596~1615)、四条河原で島原の前身六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、すぐれた傾城を「太夫」と呼んだことにはじまるといわれています。

したがって「太夫」は単に美しいだけではなく、茶・花・詩歌・俳諧・舞踏・文学なあどあらゆる教養を身につけていたわけであり、歴史上は吉野太夫・八千代太夫が有名であります。

「かしの式」とは、太夫を置屋から呼び、お客様に紹介する式であります。
それは太夫が盛装を凝らして盃台の前に座り、盃を回すしぐさをお見せしながらそばにいる仲居が太夫の名を「あんた何々太夫さん」と呼んでお客様に紹介するのであります。

気に入る太夫さんが来るまで何人呼んでもよかったそうです。

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角屋へのアクセス、行き方歩き方

公益財団法人 角屋保存会公式サイト

住所:京都市下京区西新屋敷揚屋町32
電話:075-351-0024/FAX.075-343-9102 公益財団法人 角屋保存会

市バス 島原口下車 徒歩約10分
JR丹波口下車 徒歩7分

2階の特別公開の座敷は事前に電話で申込必要。

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