心斎橋ぶらぶら散策

心斎橋筋は、船場と島之内を分ける長堀川に架かっていた心斎橋(橋梁)に由来する。
単に船場と島之内を繋ぐにとどまらず、南岸に芝居小屋が立ち並ぶ道頓堀川にも戎橋が架けられ、なおかつ、新町遊郭に程近い西横堀川寄りの道であったことから、今日に至る賑わいを見せるようになったと言われている。

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かつて当地には浄國寺(現在は下寺町に移転。夕霧太夫の墓所で有名)の古井戸があり、約6尺(約1.8メートル)の桶が据えられ、井戸の辻と呼ばれていました。

この井戸は「足洗井」とも呼ばれ、新町の遊女が廓を出るさいは、この井戸で足を洗い、これが「足を洗う」=「素人になる」の語源となったといいます。

しかし江戸時代半ば頃には使用されなくなり、桶で隠されていましたが、明治以後に桶を開けてみると、不思議なことに井戸は跡形もなくなっていました。

浪花名所図会 順慶町夜店の図 歌川広重画 国立国会図書館所蔵

順慶町の夜店は大坂の名物で、曲亭馬琴の『羇旅漫録(きりょまんろく)』にも「順慶町の夜見世こそめさむるわざなれ。
暮より四ツ時(午後10時)までは十町余両側みな商人なり。故にかひ物には夜出る人多し。」とあります。

夜店(夜見世)は夜間に出店する露店で、日中は露天、日没後は夜店と呼びました。
順慶町の夜店の賑わいは「商人の燈火は天にかがやき、街の堤燈は星かとうたがふ」とも表現されています。

もともと心斎橋筋は、新町遊郭へ至る順慶町通と交差する船場側が栄えていた。
順慶町通は夜市で知られ、煌々と照らされる街路は江戸から来た人々も驚くほどであった。

しかし、新町遊廓の衰退と大火による焼失、難波駅や湊町駅の開業(道頓堀以南は戎橋筋と名称を変えるが難波駅前まで通じている)、大丸や十合(そごう)といった呉服店による百貨店経営の開始などにより、明治以降は島之内側が栄えるようになった。

なお、現在も船場側には、順慶町通を境に、せんば心斎橋筋商店街と心斎橋筋北商店街がある。

勘四郎町(旧町名)

町名は、平野郷に住んでいた有力町人末吉勘四郎に由来しています。
「横堀の芝居」と呼ばれた芝居小屋や水茶屋で賑わいましたが、元和元年(1615)
の大坂夏の陣で全焼。

寛永3年(1626) 、官許の芝居街は道頓堀に移されることになります。

心斎橋筋商店街発祥の地

江戸時代、心斎橋筋の商業の中心は、順慶町と心斎橋筋の交差する辺りでした。

順慶町は新町廓へ通じる道であり、「順慶町の夕市は四時たへせず、夕暮より万灯てらし、種々の品を飾りて東は堺筋、西は新町橋まで両側尺地もなく連りけり、これを見んとて往かへりて群をなし・・・(『摂津名所図会』・1798年) 」と、夜店が特に賑わったといいます。

その後「今は心斎橋筋より南へつづきて島の内及び道頓堀戎橋まで夜店ありて、年々に賑はひを増せり(『 摂津名所図会大成』・1855年) 」と、江戸時代後期、南方に賑わいが延びていきました。

明治6年(1873)の地租改正当時、この交差点辺りが大阪市内の一等地だったといわれています。

きつねうどん発祥の店

明明治時代、松屋町筋にある寿司屋で奉公をしていた宇佐美要太郎さんが、その店の閉店を機に、船場でうどん屋「本舗松葉家」を開店したのが「うさみ亭マツバヤ」のはじまり。

寿司屋で働いていた経験から、いなり寿司の揚げを出してみようと考えた初代は、ある日うどんを注文したお客さんに揚げを別皿に入れてサービスで出してみたそうです。

もちろん初代は、うどんと揚げは別々に食べるものとして出したのですが、あるお客さんが揚げをうどんの上にのせて食べてみたのでした。
すると「すごくおいしい!」と……それが、うどんの上に揚げがのった「きつねうどん」の始まりです。

橋本宗吉絲漢堂(はしもとそうきちしかんどう)跡

宝暦13年(1763)北堀江に生まれた。
極貧の中でエレキテルの実験などで才能を発揮、間長涯(はざまちょうがい)らの目にとまり、その援助で江戸へ出て大槻玄沢(げんたく)に師事、蘭語を学んだ。

帰坂後、医業のかたわら長涯らに天文学・医学の蘭書を翻訳、また蘭学塾絲漢堂を開いた。

その弟子に中天游(なかてんゆう)がおり、緒方洪庵-福沢諭吉へとその系統は続いている。

心斎橋はもともと長堀川に架かっていた橋の名前である。
1622年(元和8年)に長堀川の開削と同時に架けられたというのが有力な説であり、「心斎系譜」によると長堀川を開削した4名のうちの1人、岡田心斎が長堀川両岸に沿うこの町の往来の便のため、南北に橋を架けたことが名前の由来になっている。

当時の心斎橋は、長さ18間(約35m)、幅2間半(約4m)の木橋だった。

心斎橋は「町橋」で、住民の負担で架けられました。
特に、橋際の「橋掛町」の住民は高額な負担金が必要となりました。

八百八橋の大坂の町は、舟が行き来すると、杭は擦り減り細くなり腐る。
すると橋は換え架えねばならない。

「杭により身上を潰す」そこから、「くいだおれ」の語源が生れたのです。

文明開化の波にのって、明治6年(1873)、ドイツ直輸入の鉄製弓形トラス橋となった心斎橋は、橋脚なしに川をまたぐ当時としては珍しいもので、名所絵の絶好の題材となった。

現在鶴見緑地公園に“緑地西橋”として余生を送る橋がそれである。

さらに明治42年(1909)石造2連アーチ橋に架け替えられ、眼鏡橋として川面に映るガス灯と共に長く親しまれた。愛媛県産の良質の御影石を用い、西洋風意匠で組み上げた秀麗な雰囲気の名橋であった。

1945年(昭和37年)長堀川が埋立られ、心斎橋が撤去され、地下にはクリスタ長堀が作られた。

ガス灯の下には歴代心斎橋のレリーフがあります。

新しい心斎橋では当時の面影を残すため、ガス灯を復元するとともに、欄干や親柱には建造時の石材をそのまま使用しており、顕彰碑は南側歩道の東側に設置されている。

アーチには成型された御影石が積まれ、側壁は横長の石が水平に重ねられた。
中央の橋脚の上には、ギリシャ建築を思わせる柱頭飾りを持つ二本の石柱によって支えられており昼間は、川面に写る姿から眼鏡橋とも呼ばれ、大阪の二重橋として親しまれました。

高欄の欄間には「四葉のクローバー飾」がズラリと組込まれており、夕方になると、脚立を肩にした男が現れ、有名な背高のガス燈に一灯づつ火入し、水面に映る光景に優雅さが感じられ、随分遅くまでガス灯は灯っていました。

ガス灯の基部には心斎橋の由来を記した顕彰碑がある。

工事に携わった石工などのなが記されている、しかし、行き交う人は忙しく、気づく人がほとんどいないのはさびしいかぎりだ。

現在の心斎橋、当時の高欄、ガス灯、顕彰碑など歴史を語るものは沢山あるが、行き交う人は見向きもしない。

地下鉄心斎橋駅、天井はやはりアーチ型である。
照明は円錐形に蛍光灯を組んだシャンデリアタイプ。

オリジナルからは随分と改変されてしまったが、それでも柱のない天井の高いヴォールト天井と、蛍光灯を即物的にデザインしたシャンデリアの組み合わせは、大阪が誇る、いや日本が世界に誇る地下鉄駅だ。

昭和8年の開業当時の南端の駅になっていた。

長堀鶴見緑地線は御堂筋線や四つ橋線より下を通っているので、長堀鶴見緑地線心斎橋駅のホームはかなり深い位置にあり、壁面は心斎橋をイメージしたデザインになっている。

駅のデザインテーマは「夕日と心斎橋」
ホームの壁には心斎橋のガス灯と夕暮れ(赤)から夜(青)から朝(白)の色になってます。

戎橋の橋下にも心斎橋をイメージをデザインしたモニュメントがあるが気づく人はほとんどいないのではないかな、

心斎橋通初売之景

【讃詞の読下し】
心才橋通りは、浪花第一の繁花にして、昼夜の往来絶る時なく、順慶町より南、戎ばし迄はに賑しく、商家ならざるはなし。

正月二日は初うりにて未明より軒ごとに提灯を出し、初荷の年玉配りの声街に満て実に大都会のさまなりしか。

昭和8年頃から心斎橋筋1丁目、現在のドトールコーヒーのあたりに、長谷川一夫が経営するフルーツパーラー「蝶屋」があった。

「食べ物はほとんど好き嫌いはありませんが・・・果物好きが昂じて、戦前大阪でフルーツパーラーを開業したくらいです。」(「舞台・銀幕六十年」長谷川一夫)。

店内には、気分の落ちつく照明が灯り、メニューの質も高かったらしく、「蝶屋」を扱ったグルメ評もいくつか残っている。
芸能人が自分で店をプロデュースすることはまだ珍しく、「長谷川一夫の店」といえば、彼が接客するような誤解も生んだらしい。

どちらにせよ、盛況ではあったが、第二次大戦の空襲で惜しくも焼失。
再建も試みたようだが、かなわなかった。

大丸の創業は、享保2年(1717)京都伏見で下村彦右衛門正啓が大文字屋呉服店として開店したのが始まりとか。

後大坂心斎橋の松屋を引継ぎ、名古屋で正式に「大丸屋」と名乗る。
1743年(寛保3年)、江戸の大伝馬町に進出する数年前からその準備。

○に大文字の商標を白く染め抜いた萌黄地の派手な風呂敷を使って名前を広めていたとか。
この辺りは後に喜多川歌麿、写楽を世に出す蔦屋重三郎が店を構える所です。

その商標ですが、正啓が浮世絵の柱絵の暦から思いついたとか。

                            
浪花百景 松屋呉服店 芳瀧画

丸に月の大小を見て、「こいつは何でも大にこすはなし」と決めたそうです。

もっとも大丸の正式資料には「○は宇宙を表わし、大は一と人の組み合わせ云々」、とあります。

大丸は流行を取り入れるのが巧かったそうで大層繁昌、ライバルの越後屋(三越)とは現在も競い合っています。

大阪を代表する老舗百貨店である大丸の心斎橋店本館は、現存する百貨店建築の中でも、最もすばらしいものと言ってよいと思う。
米国人建築家ヴォーリズの設計による重厚かつ華麗な内外装が特徴。

心斎橋店の外観は、御堂筋側と心斎橋筋側で外観が大きく異なる。

創業享保2年(1717)を示すプレートがいたるところに貼られている。

玄関だけは一転して、華麗な孔雀の巨大なレリーフが目を引く。

そごう心斎橋本店跡
天保元年(1830)、十合伊兵衛が坐摩神社の南隣に古手屋(古着屋)「大和屋」を開業したのが創業です。

明治27年(1894) 心斎橋筋に大和屋を移転、「十合呉服店」と名乗り、大正7年(1918)に大阪本店を増築開店、本格的な百貨店となります。

全国各地に新会社を設立して積極的な多店舗展開を行い、平成2年(1991)度にはグループ売上高が日本の百貨店一位となるまで拡大しましたが、平成12年(2000)民事再生法申請、そごう大阪店も閉店。

平成17年(2005) そごう心斎橋本店として新装開店しましたが、平成21年(2009)閉店、土地と建物は隣接する大丸に買取られ、同年、大丸心斎橋店北館として開店しました。

七宝山大福院 三津寺

真言宗御室派準別格本山。天平16年(744)、聖武天皇の勅命により、行基菩薩が応神天皇
の御墓所跡に創建したと伝わっています。

このあたりは、『日本書紀』や『万葉集』には「御津」とも書かれ、白砂青松の景勝地だったといいます。

中世には石清水八幡宮の荘園となり津寺庄、後に三津寺村と称し、元和年間(1615~1624)に大坂三郷の南組に編入されました。

本堂は文化5年(1808)建立の木造建築。
倉裡は御堂筋拡張により境内の4割が削られたのを機に、昭和8年(1933)竣工され
た鉄筋コンクリート建築です。

昭和2 0 年(1945)の空襲でも奇跡的に焼け残りました。

本尊は十一面観世音菩薩で秘仏であるが、本尊と同じ姿の石仏が山門を入ってすぐのところに祀られている。

大阪らしいというか、モンローを模した人形がありました、オーノー!!

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