南北朝の名将 楠正成の城 千早城

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千早城は、昔から交通、軍事の要衝であった千早街道から登りつめた金剛山の西にある一支脈の先端に築かれた山城で、楠木氏の詰め城である。

千早城へは道路沿いにある登り口から主郭部まで600段ほどの石段を登らなければならない。
しかし、今回は少し楽をして手前の妙見谷コースの登山口から昇ることとする。

金剛山登山道入り口には、山の脇水が流れっ放しになっている。

少し雑然としているが妙見谷コースの入り口。

しばらく歩くと谷に水場がある。

10分ほど行くと、神社への裏参道の入り口がある。

この急な山道を上がります。

案内図で見る、図の現在地から神社への裏参道を目指す。
右側の正面からの約600段の階段よりはかなり楽だろう。
脇には山の家への荷揚げ用のモノレールが設置されている。

堀切があったと思われる鞍部に出た。

二の丸から本丸を目指す。

二の丸跡に建つ「史蹟 千早城址」の碑。

千早神社は千早城の本丸にあり、もとは千早城の八幡大菩薩を祀って鎮守として創建したものであったが、後に楠木正成、楠木正行を合祀した。

1874年(明治7年)に社殿を再建、1879年(明治12年)に祠を建て千早神社となる。

摂末社

社務所一帯が三の丸と呼ばれている。

「太平記」には、藁人形に甲冑を着せるなどの様々なアイデアを用いて、幕府軍に応戦したことが記されている。

四の丸跡。

金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673m、比高は175mとなっている。
北条軍の大軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いて名高い攻城戦の舞台となった。

ちなみに、比高とは、ある2地点の標高の差のこと(つまり山のふもとから頂上までの体感の高さが比高)

これから下り、石段(表参道)は曲がりくねっていて、段差があるため、歩き難い。

楠公之功與此山倶高。
楠公の功績はこの山と同じぐらい高いという意味だそうだ。
明治31年建立。

曲がりくねった石段が続く、こちらから昇るのは相当しんどいだろう。

入り口の急な石段を登りきったところにある鳥居。

こちらが正式な登山ルート、いきなりのこの階段。

登山口の案内板と2基の石柱銘。

千早城跡表登山口石段の2基の石柱銘の説明。
(右)審強弱之勢於機先
(左)決成敗之機於呼吸
強弱の勢を機先につまびやかにし、成敗の機を呼吸に決す

(略解)
楠公の用兵の方法は、大体、敵、味方の強弱の状態を戦いの前に細かく調べ、勝敗については機微の間の、ほんの一呼吸に決する。

今日のお昼は次の目的地高取の近くの道の駅「大淀」でいただく。
菜の花が咲き、うららかな春日和です。

『赤坂・千早城の戦い』のあらまし

1331年(元弘元年、元徳3年)に倒幕計画が発覚すると、後醍醐天皇は笠置山に挙兵し、楠木正成は河内赤坂において呼応した(元弘の乱)。

鎌倉幕府は討伐軍を派遣して鎮圧し、後醍醐天皇を隠岐島で流し、関係者も処罰されたが、正成は翌年にも千早城に拠り抵抗を続けた。

幕府方は、上下赤坂城を落とした後、楠木正成の1,000人の兵が守る千早城を大軍で包囲した。
古典『太平記』は幕府方の兵力を「100万」と記している。

わずか1,000人の兵でも正成が抵抗を続けられたのは、石や丸太を崖から落としたり、鎌倉側の兵に油をかけ火を放つなどの奇策を使ったからだといわれる。

また、この情勢を見た地元の土豪などが、正成の軍に味方し、幕府軍を挟み撃ちするような状態になったからでもあるという。

幕府は有力御家人足利尊氏や新田義貞の離反を契機に滅亡し、楠木氏は後醍醐天皇が開始した建武の新政においても重用された。

赤坂・千早攻防戦では、楠木正成軍と鎌倉幕府の兵数が500対20万、1000対100万と『太平記』には記されている。

しかし、『赤坂・千早城の戦い』では「誇張があるだろう。
特に幕府軍の数はあやしい。「二十万、百万」ではなく「数万、十万」ぐらいが妥当なところだろう」とされており、『太平記』は軍記ものであるので誇張を指摘している。

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千早城へのアクセス、行き方歩き方

住所:大阪府南河内郡千早赤阪村千早
電話:0721-72-1447(千早赤阪村役場産業振興課)

南海電気鉄道 南海高野線および近畿日本鉄道 近鉄長野線 河内長野駅 南海バス 小深線「金剛山ロープウェイ前行き(8、11系統)」 → 「金剛登山口」バス停下車

近畿日本鉄道 近鉄長野線 富田林駅 金剛バス 千早線「千早ロープウェイ前行き」または「金剛登山口行き」 → 「金剛登山口」バス停下車

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