鳳林寺(上島鬼貫墓所)~吉祥寺(赤穂浪士の菩提寺)~青蓮寺(竹田出雲墓所)~増幅寺(薄田隼人墓所)~銀山寺(心中宵庚申・八百屋半兵衛と妻お千代)~源聖寺坂~応典院~真言坂~生国魂神社~浄国寺(夕霧太夫墓所)と夕霧太夫の眠る上町台地を散策します。
最乗山鳳林寺は曹洞宗の寺院で、才庵存芸和尚の開基によって天正16年(1588)に創建された。元々は武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)にあり、寺名を芳林寺と書いたが、天正末期に豊臣秀吉に現在地を寄付されて岩槻より移っている。
鳳林寺には上島鬼貫の墓所がある。
上島鬼貫は伊丹の醸造家に生まれ、25歳で大坂に出て三池藩などに経済担当として仕えました。
「東の芭蕉、西の鬼貫」と併称されたほどの俳人でしたが、あくまで孤高を堅持し、門人を持つことはありませんでした。
吉祥寺は万松山と号し、1630年(寛永7年))創建の曹洞宗の寺院である。
創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。
長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったという。
山門をくぐると大石内蔵助の石像が鎮座する。
境内にある赤穂47士の討ち入り姿の群像。
2002年(平成14年)12月、義士討ち入り300年を記念して建立された。
境内右手に赤穂浪士が討入後、切腹御免となった寺坂吉右衛門が四十六義士の冥福を祈る碑の建立を吉祥寺に依頼したといういわれのある四十七義士の墓がひっそりと佇む。
墓の中央の五輪塔は浅野内匠頭長矩候の墓。
その右隣に大石内蔵助の墓、左側が大石主税の墓がある。更にその周囲を44士の戎名と行年を刻んだ玉垣が取り囲んでいる。
青蓮寺fは聖徳太子が鴫野の地に創建した法案寺が前身です。
のちに生國魂神社と習合して、多くの塔頭を擁した畿内屈指の大寺でした。
秀吉の大坂城築城のさいに生國魂神社が移り、「生國魂十坊」のひとつとして隆盛しましたが、明治初年の神仏別離の令によって分散しました。
竹本座を築いた竹本義太夫と、座を継ぎ今日の浄瑠璃の形を作りあげた竹田出雲の墓が、青蓮寺の境内にある。
竹田出雲は近松門左衛門にも師事し、数々の名作を残した。
増福寺(薄田隼人墓所=岩見重太郎モデル)
薄田隼人は、大坂城一の怪力の持ち主であったと伝えられ、後年、ヒヒや山賊を退治した話で有名な岩見重太郎のモデルとなりました。
大坂冬の陣(1614)で奮闘するも、遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯し、「だいだい武者(橙は酸味が強く、正月飾りにしか使えないので、見かけ倒しを意味する)」と嗤われたエピソードは有名です。
源聖寺坂(天王寺七坂)
登り口に源聖寺があるので、その名を取っています。
天王寺七坂の1つで、口縄坂と並び上町台地の代表的な坂です。
坂を上がった辺りは戦前は長屋が並び、「ガタロ横町」と呼ばれ、織田作之助の『夫婦善哉』の舞台にもなりました。
今は残念ながらホテル街です。
銀山寺は源聖寺坂を上がってすぐ右手、天正19年(1591)豊臣秀吉の城下町建設の一環として寺町が建設される中、現在地に光明寺第24世住職・縁譽上人休岸によって創建された寺。
当初は「大福寺」と称したが、秀吉が中国の金山寺に劣らぬとして寺号を「銀山寺」に改名。
秀吉の守り本尊と伝えられる雨宝童子立像が安置されているほか、秀吉の画像、朱印状などが伝わる(大阪城にて保存)。
境内には、お千代・半兵衛の比翼塚がありますが、2人の心中事件は近松門左衛門の『心中宵庚申』のモデルとなりました。
非常に珍しい夫婦心中の話で、紀海音も『心中二ツ腹帯』の題で競演を挑んでいます。
心中当時、お千代は身重で、5ヶ月の胎児がいましたが「離身童子」として弔われています。
生国魂神社の表参道の脇に石碑が2基建っている。
『島 男也旧居』碑で1944年(昭和19年)の建立と『川崎孫四郎自刃の所』碑は1969年(昭和44年)の建立。
「関西茨城県先賢士顕彰会」の立て札によると1860年(安政7年)3月3日の水戸浪士による大老井伊直弼殺害事件「桜田門外の変」と同時に大阪でも挙兵を図ろうとして未遂に終わった事件があったそうだ。
高橋多一郎は水戸の藩士で「桜田門外の変」で首謀者の金子孫二郎とともに指導的な役割をつとめたが、高橋多一郎は大坂での決起を担当し、息子の荘左衛門や川崎孫四郎ら同志と共に3月6日に来坂、挙兵の準備にかかったが頼みの薩摩が大久保利通らの統制で慎重論に変わり立ち上がる様子がなく、そのうちに「桜田門外の変」の下手人狩りが始まり身動きが取れなくなった。
江戸の事件の首謀者金子孫二郎は上方まで逃げて来ていたが伏見で捕まった。
川崎孫四郎は大坂で自刃し島男也は捕われた後江戸送りとなり伝馬町の獄舎で死亡している。
生國魂神社境内にあった芭蕉句碑。
元禄7年(1694)9月9日(重陽の節句)に奈良から難波に入り、ここ生玉で「菊に出でて奈良と難波は宵月夜」と詠んだ。
生國魂神社境内にある西鶴翁像は、延宝8年(1680)5月に「生國魂神社南坊」で井原西鶴が一昼夜で独吟四千句を興行したことを記念したものです。「南坊」の所在跡に座っていて、現在の世を面白おかしく眺めています。
真言坂(天王寺七坂)
生國魂神社の神宮寺であった生玉十坊のうち、この坂付近にあった六坊がすべて真言宗だったことが名称の由来です。
六坊には弘法大師の御影堂があり、明治の廃仏毀釈でなくなるまで、浪華大師巡りの礼所として賑わいました。
浪花百景に描かれた真言坂。
大蓮寺は天文19年(1550)に将軍・足利義晴の三男坊・晴誉上人によって、足利家の大坂祈願所として創建されました。
近世から大規模な寺子屋が開かれ、明治以降は高津小学校や天王寺中学校(現高校)の発祥の地にもなりました。
吉本芸人塚 吉本の創業者吉本せい(1889‐1950)の遺志をついで当寺檀家である娘の辻阪邦子が、平成5(1993)年に建立した。
幕や高座の座布団などが模られている。
浄國寺(夕霧太夫墓所)
永禄3年(1560)開創の風格ある古刹。
ここの弥勒菩薩様は両手を掛ける珍しい姿で、室町時代の円仁作で、重要文化財に指定されています。
また3メートル程ある大きな「まんなおし地蔵さん」も有名で、「マンが悪い(運の流れが悪い)」ときに、流れを変えてくれます。
ここにあるのが、遊女・夕霧太夫の墓です。
遊女には、太夫、天神、鹿子位、端女郎の位階があって、夕霧は歴史上もっとも有名な太夫として名を馳せました。
夕霧の墓の正面には「花岳芳春信女」と刻み、裏面には『延宝6亥午年正月6日俗名あふぎや夕ぎり』とある。
右側には『日人誤破之 一花一水 則病既退 文久三年(1863年)七月再興之』と再建立の由来が記され、左側には鬼貫の句『此塚に 柳なくとも あわれ也』が刻まれ,その下に夕霧墓とある。
この句は夕霧没後11年の1688年(元禄元年)に鬼貫が墓に詣でて詠んだもの。
夕霧太夫の墓はこの浄国寺の外に、生地といわれる京都嵯峨「清涼寺」にもある。
夕霧太夫墓誌。
「神代このかた、また類なき御傾城の鏡」(西鶴『好色一代男』)と称されるほどの美形で「しとやかな格好で肉つきよく、地顔でも色白く、すがめでも情深く、酒も飽かず飲み、歌ふ声も好く、琴三味線に通じ、文句気高く、長文書き、物ねだりせず、人に惜しまず、手管に長けて、浮名が立つと止めさせ、のぼせあがると理をつめて遠ざかり、身を思ふ者には世間のことを意見し、女房のある者には合点させ、魚屋、八百屋までよろこばせた」(同)といいます。
吉原の高尾、嶋原の吉野と並んで天下の三大名妓といわれるようになりましたが、大坂へ来て6年後、延宝6年(1678)の正月6日に病に倒れて、25歳の短い一生を終えました。
亡くなった時は大坂中が悲しんだと言われ、鬼貫が「この塚は柳なくともあわれなり」という句を送り、歌舞伎では坂田藤十郎が「夕霧名残の正月」を舞台にかけ、33回忌には近
松門左衛門が浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』を書き、その名を不朽のものとしました。
夕霧の名を冠したソバ屋を発見
大阪は北の梅田新道、お初天神東横に瓢亭は位置します。
名物は夕霧そば。
柚子の表皮を細かくおろし、ま白いそば粉に混ぜて特別入念に打った変わりそばです。
そばの淡白な味と柚子の持つ優雅な香気が良くマッチし、色も香りもあるこのそばを、近松門左衛門作「廓文章」の夕霧太夫にちなみ、夕霧そばと命名した。
ぐるなび 夕霧そば 瓢亭
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