夕霧太夫の面影をもとめて新町を歩く

四ツ橋駅~西六平和塔~新町橋~新町通(瓢箪町)~新町北公園~新町九軒桜堤跡の碑~千代女の句碑~初世中村鳫治郎生誕の地碑~大阪屋(新町演舞場)~砂場跡の碑(麺類店発祥の地碑)~長堀グリーンプラザの橋名板や記念碑群と夕霧太夫の面影をもとめて新町を歩いた。

四ツ橋跡
かつて、この地を流れていた長堀長堀川と西横堀川がここで交差していた。
その交差する地点を4つの橋が「ロ」の字型に架けられた。
橋は、上繋橋、下繋橋、炭屋橋、吉野屋橋である。

地元では、四ツ橋と呼ばれ、親しまれていた。

現在では、交差点に四ツ橋跡の碑が整備され、在りし日を偲ぶことができます。

「浪花百景」より「四ツ橋」。

四ツ橋跡の碑の反対側に上島鬼貫の「後の月 入て貌よし 星の空」の句碑があります。

小西来山の「涼しさに 四つ橋を四つ わたりけり」の句碑。

新町橋碑
瓢箪町の通りをまっすぐ東に進むと大きな四ツ橋筋に交わり、そこを渡ってさらに東に行くと阪神高速道路一号線の高架下に行き着く。そこに「新町橋碑」という石碑が建っている。

かつて新町遊廓があったころ、遊廓の東側の大門の先、西横堀川にかかっていた橋は新町橋と呼ばれていた。

寛文12年(1672) の建造という。
新町遊廓と船場の商人街、道頓堀の芝居小屋街とを結ぶ唯一の橋でもあった。

そのため橋は賑わい、橋の界隈には行き交う人の群れをあてこんで多数の夜店がならんでいた。
「一六の夜店」と呼ばれて、大坂名所のひとつであったという。

江戸時代の雰囲気をまだ残す明治初期の橋周辺の風情を、二代目長谷川貞信(1848-1941)が描いた絵が、石碑に貼り付けられている。

新町橋碑の向かって右側、つまり南側に隣接して「西六平和塔」という石碑が建っている。
さきの大戦、すなわち満州事変から太平洋戦争にいたる大戦への出征や空襲で亡くなったこの地区の人々を慰霊するために、昭和33年(1958) 地区連合会によって建てられた慰霊碑である。

とくに昭和20年(1945) 3月13日の大阪大空襲では、この地の大部分が焼き尽くされ、300人以上が死んだ。

新町の始まり
秀吉が天下を統一して大坂に城を築き、大坂のまちの建設をはじめたころ、戦いに疲れて大坂に集まった武士たちに大坂の色里を公認した。

これが遊郭の始まり。
その後、大坂の夏の陣で崩落した大坂城を二代徳川秀忠が再建した。
再建工事に集められた各藩の武士たちのために、風紀の乱れを案じた大坂城主松平忠明が散在する遊所を一か所に集めた。

これが公認遊郭・新町の始まりである。
起源は京都嶋原、江戸吉原よりも古いといわれる。

江戸時代より各地の公認・非公認の遊所の比較が行われてきたが、新町は東の大
関(最高位)であるという記録もある。

このあたりは芦原の湿地帯で海へ水路が続いていた。
西鶴の浮世草子、近松の浄瑠璃などにたびたび描かれ、多くの文人が訪れている。

夕霧太夫
遊女には、太夫、天神、鹿子位、端女郎の位階があった。
扇屋の夕霧は歴史上もっとも有名な太夫として名を馳せている。

本名はお照。
京都の生まれで、京都嶋原の扇屋に抱えられていたが、扇屋が大坂新町に引越し
たときに夕霧もやってきた。
このとき19歳。

「神代このかた、また類なき御傾城の鏡」(西鶴『好色一代男』)とされるほどの美形で「しとやかな格好で肉つきよく、地顔でも色白く、すがめでも情深く、酒も飽かず飲み、歌ふ声も好く、琴三味線に通じ、文句気高く、長文書き、物ねだりせず、人に惜しまず、手管に長けて、浮名が立つと止めさせ、のぼせあがると理をつめて遠ざかり、身を思ふ者には世間のことを意見し、女房のある者には合点させ、魚屋、八百屋までよろこばせた」(同)という。

こうして、夕霧は、吉原の高尾、嶋原の吉野と並んで三大名妓といわれるようになった。しかし、大坂へ来てわずか6年後、病に倒れて25歳の短い一生を終えた。
延宝6年(1678)の正月6日である。
墓は下寺町浄国寺。

鬼貫が「この塚は柳なくともあわれなり」という句をおくっている。

歌舞伎では坂田藤十郎が「夕霧名残の正月」を舞台にかけた。
33回忌には近松門左衛門が浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」を書き、その名を不朽のものとした。

『浪花百景』「新町店つき」歌川国員 画。
「店つき」とは遊女屋の表に面した格子の部屋をさし、客は格子越しに好みの女性を品定めをした。

『廓文章』の舞台のひとつである揚屋(現在でいう、料理屋、料亭)の「吉田屋」は大阪大空襲による焼失まで嶋原の「角屋」と共に現存していた。

『浪花踊』が上演された新町演舞場は閉鎖されたが、建物は大阪屋本社ビルの一部として残っている。

新町北公園のすぐ南側に、かつての瓢箪町があるが、いまでは通常の大阪市内のビル街の景観となっていて、かつての花街を思わせる雰囲気は皆無である。

新町九軒桜堤跡

江戸時代大坂の代表的な遊郭であった新町の内、九軒(くけん町)は夜桜が特に有名で、これは文政2年(1819)3月新町振興策の一環として植えられたことに始まる。

以来、毎年太夫(たゆう)道中が行われ、桜で飾りつけた最上位の遊女が桜並木のもとを練り歩く姿を見ようと、多数の見物客が詰めかけた。

九軒町には近松門左衛門の『夕霧阿波鳴渡』にも登場する新町最大規模の揚屋・吉田屋があり、幕末には新選組の土方歳三や沖田総司なども訪れています。

フィクション作品の世界で沖田は、一般に純情な青年として描かれることが多かった。
町医者の娘とプラトニックな恋愛をするなどの描き方がほとんどで、実際に沖田の周囲では近藤や土方などのように花柳界の女性の影は見えない。

ただ、井上松五郎の文久3年(1863年)4月22日付の日記によると、土方、松五郎、井上源三郎と共に沖田が新町の廓九軒町吉田屋にて天神(遊女)を買うという記述が見られるため、必ずしも女遊びをしなかったというわけではないようだが、自分が好意を持っている女性の話になるととても真面目だったという。
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新町北公園に建つ新町九軒桜堤跡碑。

元禄期の俳人・加賀千代女の句碑は、廓内の九軒町の西橋に建てられていたが、戦時中に所在不明となり、その後、碑の上部が破損した状態で発見された。
又、町の東端には芭蕉の句碑もあったが、所在不明である。

(だま)されて来て (誠)なりはつ桜   千代女
「だまされて」の句は、千代尼が誘われて新町を訪れ、うわさにたがわぬ桜の美しさを詠んだものともとれる。

春の夜は 桜にあけて しまいけり  芭蕉


新町北公園の真ん中付近に、大きな大理石の詩碑が建っている。この地が輩出した詩人、児童文学者、作詞家であった百田宗治の詩碑である。

百田宗治は、明治26年(1893) 1月、この地で生まれた。
青年時代から詩を書き始め、大正4年(1915) 詩集「一人と全体」を発表して詩人として活動を開始した。

人道主義的、民衆派的な詩を書き、また後には児童文学に関わるようになった。
童謡作品としては「どこかで春が」が「日本の歌百選」に選ばれている。

この石碑には、この詩人の代表作とされる「何もない庭」が刻まれている。

日がかげれば

何もない庭はさびしい

日さえ照っていれば

万朶(ばんだ)の花の咲きにほふ心地がする

新町北公園の南に初世中村鴈治郎生誕の地碑が建つ。
当地には置屋「扇屋」があり、幕末期(万延元年〔1860〕)に、この「扇屋」の一人娘の妙た えと、歌舞伎役者の三代目中村翫雀との間にできた子が、のちに上方歌舞伎界を支える初代中村鴈治郎です。

『心中天の網島』の治兵衛を演じて「頬かむりの中に日本一の顔」とまでいわれた名優で、その三男が二代目鴈治郎、その長男が現在の四代目坂田藤十郎(人間国宝)です。

角藤定憲は壮士芝居をおこした俳優。
岡山県生れ。
《東雲(しののめ)新聞》の記者時代,中江兆民のすすめで〈大日本壮士改良演劇会〉を組織し,1888年12月大阪の新町座で自作の小説を脚色した《耐忍之書生貞操佳人(こらえのしよせいていそうのかじん)》ほかを上演,新演劇(新派)の先駆者となった。

94年には一座をひきいて上京,その後も〈壮士演劇の元祖〉を名のって各地を巡業したが,演技が粗雑であったうえに経営の才がなく,晩年は不遇だった。

旗揚げの『新町座』の跡地に近い大阪市西区新町二丁目の新町南公園には、1953年(昭和28年)建立の、『角藤定憲改良演劇創始之地』の碑がある。

揮毫を頼まれた喜多村緑郎は、第一案の『新派演劇発祥地』は嫌ったという。
劇団新派のホームページは角藤を新派の祖としているが、壮士芝居と新派とは別の系譜、とする論も行われる。

新町二丁目の「新町南公園」に江戸三大そば「砂場」の発祥地を発見!

砂場(すなば)は、大坂(大阪)を起源とする蕎麦屋老舗のひとつ。
蕎麦屋の老舗としては、更科・藪とあわせて3系列が並べられることが多い。

名称の由来は、大坂城築城に際しての資材置き場のひとつ「砂場」によるものとされる。
砂場(大坂)の正確な創立年代はわかっておらず諸説ある。

最も古い説では大坂城築城開始の翌年の1584年に「津国屋」が創業としているが、この説については食文化史から疑問が提示されている。

1757年に出版された『大坂新町細見之図澪標』の記載で、この中に「津国屋」、「和泉屋」の2軒の麺店みられる。
和泉屋については、1730年に出版された別文献にも、店頭風景が掲載されており、遅くともこの年までに成立している。

この2軒について、場所名で呼ぶことが定着し、「す奈バ」(砂場)の屋号が生まれたものと考えられている。

1799年の『摂津名所図会』の大坂部四下の巻新町傾城郭の項には「砂場いづみや」の図があり、そば切りとうどんの両方を提供しているように見える。

これらの店は現在存在しないが、大阪市西区新町二丁目の「新町南公園」に砂場発祥の石碑が建てられている。

江戸への進出

江戸への進出時期についても明確な記録はないが、1751年に出版された『蕎麦全書』に「薬研堀大和屋大坂砂場そば」の名称が、1781年-1789年に出版された『江戸見物道知辺』に「浅草黒舟町角砂場蕎麦」の名称が、それぞれ見られる。

ただし大坂の砂場との関係は明らかではない。

江戸末期の1848年に出版された『江戸名物酒飯手引草』には、6軒の「砂場」が紹介されている。

蕎麦屋の定番商品となっている「天ざる」は、1955年に室町砂場で開発されたものとされるが定かではない。

砂場蕎麦の歴史

江戸蕎麦の御三家「藪」「砂場」「更科」の中でも、砂場は最も歴史のある屋号です。
その歴史は江戸時代よりもさらに前、大阪城の築城にまで遡るほど。

しかし一方で砂場の名前と特徴は、他の薮や更科に比べるとあまり知られていないようです。
一体砂場では、どんなお蕎麦を頂くことができるんでしょうか。
砂場の正確な成り立ちはわかっていませんが、今も営業を続けている砂場のお蕎麦屋さんによると、その誕生は大阪城の築城に関係しているといわれます。

大阪城が築城された年の翌年、1584年、和泉屋という菓子屋が蕎麦屋を始めました。
その場所が築城に使う砂を置いていた場所だったため、いつしか「砂場」という愛称がつき、屋号として定着したそうです。

その後砂場は、徳川家康が江戸に居城を定めるのに併せて一緒に移転。
江戸の糀町に店を構えました。
これを糀町七丁目砂場藤吉と呼んでいます。

糀町七丁目砂場藤吉は後に荒川区の南千住に移動し(南千住砂場)、今でも営業されています。
また糀町七丁目砂場藤吉からは、幕末には室町砂場が、明治初期には虎ノ門砂場が暖簾分けをして独立しています。

こちらも今も営業中です。また江戸時代から続く砂場として、久保町すなばが移転した巴町砂場があり、やはり現在も営業中です。

間長涯天文観測(はざまちょうがいてんもんかんそく)の地

西区新町二丁目 自転車駐車場連絡口すぐ
地下鉄長堀鶴見緑地線「西大橋」下車 西約400m

長涯(1756~1816)は質商を営む町人天文暦学者である。
当時の暦は実際の太陽の運行との間に差異が大きく、幕府も改暦に着手、長涯もこれに参画し、寛政9年(1797)みごとに完成した。

その功により直参にとり立ての話がでたが、それを断わり代わりに英国製の観測器具を借り受けることにした。

それを用い自宅南側に架かる富田屋(とんだや)橋の上で、天文観測に従事した。
そのときは周囲を通行止めにするほど権威があったという。

大阪木材市売市場発祥の地
元和末年(1622)の頃土佐藩の申請によって材木市が立売堀川で始まりやがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると西長堀川でも材木市が許可される事になった。

土佐ばかりでなく、日向, 紀州、阿波、尾張など全国各地の材木が集まりしだいに川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり、西長堀橋南詰から富田屋橋、問屋橋、白髪橋にかけての浜側は江戸時代から昭和にいたるまで年中材木市が開かれてた。

戦後、長堀川は水質の汚染が進み舟運の利用も減少したため昭和36年から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が埋め立てられ、また昭和四十二年から同四十六年にかけて四ツ橋から 木津川間の西長堀川も埋め立てられた。
今でも北堀江の東側には材木商の看板があちこちに残っている。

夕霧の名を冠したソバ屋を発見

大阪は北の梅田新道、お初天神東横に瓢亭は位置します。
名物は夕霧そば。

柚子の表皮を細かくおろし、ま白いそば粉に混ぜて特別入念に打った変わりそばです。
そばの淡白な味と柚子の持つ優雅な香気が良くマッチし、色も香りもあるこのそばを、近松門左衛門作「廓文章」の夕霧太夫にちなみ、夕霧そばと命名した。
ぐるなび 夕霧そば 瓢亭

ついでに大阪で今庄ソバがいただける店を紹介しておく。
ぐるなび 今庄そば 大阪高島屋店 、 ぐるなび 今庄そば 淀屋橋店

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