天下人・信長か築いた幻の天守と城 安土城

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日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。

そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。

大手口の石段。
両脇には深い溝がある。
1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。

この大手道上部に転用石があります。

大手道に面した秀吉の屋敷は、上下2段に分かれた郭(くるわ)で構成されています。ここは上段。

伝秀吉邸復元図。
大手道に面したこの屋敷は、上下2段に分かれた郭(くるわ)で構成されています。
下段郭の入口には壮大な櫓門が建っていました。

1階を門2階を渡櫓とする櫓門は近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。

大手道を振り返ってみる。

左は総見寺仮本堂伝徳川家康邸跡。

直線約180mの上部はかなり急な上り坂になっている。
城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。
また二の丸には信長の霊廟が置かれている。

織田信忠邸跡。

織田信澄、森蘭丸邸跡。

天主閣跡から東へ少し下った黒金門跡(くろがねもんあと)付近には、壮大な石垣もある。

釈迦の足跡といわれる仏足石である。
この石は石垣を作る際に墓石,石仏及び石塔などと一緒に、石材として用いられたものであると考えられている。

本丸跡。百個以上の礎石が発見されている。
ここに御殿である清涼殿と同じ平面を持つ建物が建てられており、天皇を迎える為の行幸御殿であったとする説が有力。
「千畳敷」とも言われるだけあって、安土城の中では広い敷地を誇る。

天守丸跡に残る礎石。
安土城炎上時の高熱によって焼かれた跡の残っている礎石もあるらしいが確認できず。
なお、天守の最下層は地下室(穴蔵)だったと考えられている。

天守からの眺望。

信長廟への石段。

安土城の「織田信長公本廟」は二の丸の場所に、信長の太刀や烏帽子、直垂(ひたたれ。武家の礼服)などの遺品を埋めて弔うために立てられた。

建立したのは秀吉だといわれるが、その秀吉は「小牧長久手の戦い」で信雄を屈服させ、安土城が廃城になった天正13年に関白に就任する。

現在、「織田信長公本廟」は立入禁止になっているものの、門の外からその姿をうかがうことができる。

織田信長公本廟から三重塔を目指す、なにか敗残兵が引き上げるようなイメージ。

総見寺本堂跡展望台よりの眺望、建造当時は郭が琵琶湖に接していた(昭和期に干拓が行われたため、現在は湖岸からやや離れている。)と伝わる。

三重塔は、創建時(桃山時代初期 1576)に「近江甲賀の地」に建てられた塔(長寿寺)を移築したものと伝えられる。
天主台南西の百々橋口付近に摠見寺がある。

持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は各地に見られるが、堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも安土城だけである。
しかも単に城郭内にあるだけでなく、百々橋口道(南西の入口からの道)から城への通り道が境内になっており、この入口から入った者が城にたどり着くためには、必ず摠見寺の境内の中を通り抜けなければならない。

『信長公記』の記述から、この百々橋口道は通常時に城に入ろうとする者が使用するための道だったと推測されている。

二王門を上部から見る。

二王門(重要文化、室町時代 元亀二年 1571年建立)。
金剛力士像二躰も重要文化財。

石塁と大手三門。

東側石塁北段郭と虎口。

案内所にある天守模型。

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安土城へのアクセス行き方歩き方

住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
電話:0748-46-7215(安土町教育委員会文化体育振興課)

JR東海道本線(JR琵琶湖線)安土駅から徒歩20分。安土駅前のレンタルサイクル使用で約7分。

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