島原市武家屋敷の町並

九州

島原城の西に続く一帯を、鉄砲町と呼びます。
鉄砲町は島原城の築城とともに形成され、鉄砲町の名は鉄砲組(徒士)の住居地帯であったことと、造成当時隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたので、その名がつけられたと言われています。

7つの町筋は碁盤の目のようにできており、ここには扶持(ふち)取り70石以下の徒士(かち)屋敷が690戸ありました。

町筋の中央に流れる清水は、北西の「熊野神社」を水源とし、飲料水として使われ、水奉行を置き、厳重に管理されていました。

家の前には洗い場が設けられている。

本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで、山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。

庭には「水まつり」に合わせ、島原工高建築科の10人が製作した木製水車が。

また、武家屋敷休憩所では白玉に独特の蜜をかけた郷土の味「寒ざらし」が楽しめます。

一般公開されている三軒のうちの一つ、篠塚邸。

一屋敷は三畝(90坪・約300平方メートル)ずつに区切られ、住居は25坪ほどの藁葺き、屋敷内には藩命で梅・柿・蜜柑類・枇杷などの果樹を植えさせ、四季の果物は自給できるようになっていました。

また屋根の葺き替えに使う真竹の藪を持った家もありました。

「男座」からその奥の「次の間」、更に奥の「女座」と部屋が続く「篠塚邸」の風景です。
「男座」では息子を前に座らせ、お父さんが何かを教えている場面のようです。

徒士たちの平常の勤務は、各役所の物書(書記)、各村々の代官、検察や警察、城門の警備などでしたが、1868(明治元)年の「戊辰戦争」には260人ほどの徒士たちが官軍に属して奥州へ出陣、4人が戦死するという戦歴も残しています。

塀の上の小石が重ねてあるのは、襲われた時に石をすぐ投げられるようにということだそうで「こぼれ石」と呼ばれる。
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本日の昼食は島原の郷土料理、具雑煮(ぐぞうに)を元祖 姫松屋 本店でいただいた。。

島原藩領だった島原半島一帯で作られている郷土料理で、日常食ではないが家庭では正月はもちろんのこと、その他の祭礼、ハレの日の食事に供される。

餅、野菜、肉、魚などの具を種類・量とも多く入れて煮込んだ雑煮である。
入れる具の種類などは家庭ごとの差が大きい家庭料理。
観光客相手に外食の店舗でも供されており、これら観光客には、土鍋で煮込んで供する形式が多い。

島原の乱の原城籠城軍が、農民達にもちを兵糧として貯えさせいろいろな材料を集めて雑煮を炊いたのが起源とされている。
これを元に、姫松屋初代糀屋喜衛ェ門が1813年に作ったと主張するが定かではない。

しかしこの島原の乱では、百姓軍はスパイを除いて一人残らず殺されたので、この起源自体が定かではない。

丸餅は煮て使用し、汁はすまし仕立て、かつおだしと醤油を使う。
鶏肉、野菜はサトイモ・白菜・シイタケ・春菊・大根・ごぼう・人参などを使用する。
焼きあなごを入れる事もある。

具雑煮はこちらの通販で求めることができます。

坂本龍馬が勝海舟に同行し、初めて長崎を訪れたのは1864年。
今から149年前のことです。

長崎での龍馬の活躍は広く知られていますが、その第一歩が島原の地であったことはあまり知られていません。

熊本から有明海を渡り、島原へ上陸した龍馬らは、島原街道を歩いて長崎へと向かいました。

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武家屋敷へのアクセス、行き方歩き方

住所 長崎県島原市下の丁
電話番号 0957-63-1087

島原鉄道『島原駅』から徒歩10分