適塾と緒方洪庵

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蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。
正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。
また、適々塾とも称される。
緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来。

緒方洪庵は文化7年(1810)備中 足守藩(現在の岡山県岡山市)で生まれる。 
父は 足守藩士であった。

体が頑強でないので 武士には 向いてないと思い 文政9年(1826) 17歳の
時、中天遊の私塾に入門し蘭学、蘭方医学を学ぶ。

緒方洪庵は医者であるが、その門下には
・福沢諭吉(教育者、慶応大学の創立者)、
・大村益次郎(日本陸軍の創立者、保守主義者に暗殺される。
九段の靖国神社の大鳥居を潜ったところに、銅像が建っている。)、
・佐野常民(日本赤十字社の創設者)
・橋本左内(政治家、安政の大獄で刑死)
・大鳥圭介(徳川幕府の陸軍奉行、明治政府で外交官、朝鮮公使等を務める。)
これら、近代日本を支えた人材が多く輩出している。
面白いのは、師匠の緒方洪庵は医者であるが、軍人、政治家、教育者等多彩な方
面で活躍した人々が多いことである。

江戸での洪庵は将軍・徳川家茂の侍医として「法眼」の地位となるなど富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。

さらには蘭学者としての風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はピストルを購入するほどであった。
以上のことからくるストレスが彼の健康を蝕んでいった。

彼の急死の原因として、友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行して長時間炎天下にいたことであると述べている。

中庭の見える書斎

台所および通り庭

ダイニング

女中部屋(2F)
奥は蘭和辞書のあったズーフ部屋

塾生大部屋
緒方洪庵は塾生たちに次のように言っていた。
「適塾は、その名のように己が何に適しているかという潜在能力を見出して磨く場だ。
だから、この塾は諸君の就職の世話はしない。

あくまでも、諸君の自立の精神によって、自分の中に潜んでいる能力に磨きをかけろ、諸君は原石だ、この塾は原石に磨きを掛けて宝石にするための場である。
その宝石をどう売るかということは、私は考えていない。」

柱には無数の刀傷がある。

愛珠幼稚園は北船場連合町会が当時日本でほとんどなかった幼稚園を設立することを決めた。
1880年(明治13年)現在の北浜4丁目に開園した。 
民間の幼稚園として発足した愛珠幼稚園は1889年大阪市の市政施行に伴い、連合町会から大阪市に移管した。

銅座跡
銅が重要な輸出品であった江戸時代、明和3年(1766)に銅集めの役所として設立された。
銅座は国内産銅の精錬・売買を独占し、諸国の銅山で産出した銅は、問屋の手を通じ、この銅座が買いあげた。

この銅は銅吹屋仲間の手により精錬されそのあと海路にて長崎へ回送された。
また銅の密売を防ぐため古銅類買上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片に至るまで銅座が管理した。

懐徳堂は、江戸時代後期に大坂の商人たちが設立した学問所。
明治初年の閉校、大正時代の再建、太平洋戦争による罹災焼失を経て、現在は大阪大学が継承しているとされる。

門下より草間直方・富永仲基・山片蟠桃のごとき特徴的な町人学者を輩出したことでも知られる。

日本生命本館の今橋通りに面した壁面に懐徳堂跡の記念碑が埋め込まれている。

淀屋橋の交差点を南に少し進むと、UFJ銀行のビルの前の植え込みの中に、大阪商工会議所跡を示す小さなプレートを発見することができる。

明治十一年(1878)八月、五代友厚らによって、この地に商工会議所の前身である大阪商法会議所が創設され、大阪経済の再生と近代化の起点となった。

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適塾へのアクセス、行き方歩き方

住所:大阪市中央区北浜3丁目3番8号
電話:06-6231-1970

京阪電車淀屋橋駅、北浜駅下車 徒歩5分
地下鉄御堂筋線 淀屋橋駅下車 徒歩5分

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