朝霧の中先ず神魂(かもす)神社を訪れた。
駐車場から丘を見上げると朝霧に浮かび上がる木を見つけました。
もう少しクローズアップして見ます。
画像をクリックして拡大して見てください、草、木の枝に朝露が付いてキラキラ光っています。
とても神々しい風景です。
向かいの畑、山の中腹にも朝霧がかかり清々しい景色です。
神魂神社への参道。
石段を登り神魂神社へ向かいます。
御手洗(みたらし)の所で参道は二手に分かれる。
そのまま真っ直ぐ進む参道は女坂で傾斜が少ない。
しかし、右手の男坂は急勾配の階段である。
男坂の石段を登り切ると、目の前に神社の社殿が聳えている。
社伝によれば、天穂日命がこの地に天降って創建したものと伝えられるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、実際の創建は平安時代中期以降とみられている。
神魂を何故にカモスと読むかについて諸説があるが、天穂日命が当地に天降り天津神籬(神木)叉は天津磐坂(大岩)に先伊弉冊大神を祀り、次に伊弉諾大神を併せ祀り神霊の鎮り坐す所、即ち神坐所と申され、それが、カンマス-カモスとなったと云われる。
本殿の屋根の千木(chigi)の先端が水平に切ってあります。
これは祭神が女神である事を示します。
イザナミノミコトを主祭神とし、本堂は国宝。
その特徴は床が高い事。前面と後方の中央にある柱(宇豆柱うずばしら)がそれぞれ前と後ろへ突出して建てられている事などで現存する大社造の社殿の内では最も古いといわれています。
稲荷社下のきつね君。
ご神木をひもろぎとする場所も多いが、こうやってひもろぎそのものが祭壇になっているのは初めて見ました。
由緒正しく古い神魂神社だからこそ、こうやって自然の力を使って神様を信仰してきたのかもしれません。
その名残を感じられる事ができます。
木漏れ日がきらびやかできれいです。
少しどぎついかな。
こちらの方が少しはおとなしいかな。
小泉八雲は明治24年4月に西田千太郎とともにここを訪れている。
人力車に乗って行楽と取材をかねての松江郊外の神社めぐりで、このとき六所神社、武内神社、真名井神社も訪れています。
この坂を上りきったところに「八雲立つ風土記の丘」があります。
早朝でまだ訪れる人も少なく清々しい気分です。
奈良時代の天平5年(733)、出雲の国からこの国の地誌ともいうべき『出雲風土記』が中央政府に提出された。
その中に「国引き神話」で郡名の起源を説明した意宇郡(おうのこおり)がある。
松江市の南東に位置する茶臼山から意宇川周辺にかけての一帯がかっての意宇郡の中心部で、古代出雲文化の発祥の地とされている。
付近は遺跡の一大宝庫である。
これらの遺跡を整備し、総合的に保存す活用する目的で、意宇平野を臨む丘陵上に、昭和47年(1972)9月「八雲立つ風土記の丘」がオープンした。
資料館の屋上へ続く階段。
東光台古墳の石棺
(島根県立八雲立つ風土記の丘内に移築保存されている。)
東津田町石屋の丘陵尾根上で発見され、発見時には人骨の一部が残っていた。
出土した人骨には朱が残っていた。
V字形に石を積んで石枕を作っているのが特徴。
遠く岡田山一号墳を望む。
古墳時代の住まい
この家屋は、古墳時代(今から約1500年前)の建物を推定復元したものです。
このような形の建物は竪穴住居と呼ばれ、縄文時代から奈良時代頃まで庶民の住居として用いられていました。
復元のもとになった風土記の丘地内、大草町宮ノ後の住居跡は地面を50~60Cm掘り込んで、4本の柱で屋根を支えるもので、北側の壁近くに炉が作ってありました。
紅葉の葉や枝の露が陽光にキラキラ輝き眩しい。
サザンカのトンネルの径。