この御陵は「清蓮院」と「知恩院」の間を山へ少し登った所にあります。
訪れる人は少なく散策を楽しむにはいいところです。
十楽院は現在廃絶しているが、平滋子が父である平時信の供養のために創建した寺院で、青蓮院三院のひとつに数えられ青蓮院門主の住房となっていた。
「清蓮院」から「知恩院」へ向かう道を少し上がったところへ御陵への入り口があります。
平日以外は参道への門は閉じられています。
参道からは塀越しに青蓮院の宸殿や本堂が見えます。
とりわけ新緑と紅葉の頃には散策にはおすすめのところです。
仙洞御所である洛西花園の萩原殿にちなみ、生前は「萩原法皇」と称された。
崩後、遺勅によって花園院と追号。
花園天皇は、永仁5年(1297)、持明院統の伏見天皇の第2子として誕生し、12才で即位した。諱(いみな)は富仁、幼少時から健康に恵まれず、専ら絵画・書籍の観賞や読書研究に努めた。
極めて才知があり、歴代天皇の中でもその学識や読書量は並はずれていた。
しかし、12才から22才までの10年間の在位中にその才能を十分に生かす機会はなかった。
実権は父の伏見上皇にあったからだ。
在位10年を経た22才で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して、自ら上皇となった。
時あたかも皇室と北条・足利両政権をめぐる激動の時代で、帝は殆ど政務に関与せず、ひたすら学芸に精進した。
39才で天台の円観慧鎮僧都について剃髪得度(出家)、法名を遍行と称し花園法皇といわれるようになった。
貞和4年(1348)花園法皇は52才の生涯を閉じ、正法山妙心禅寺は花園法皇を開基としている。
花園天皇には、22年間の行状や生活の様子を繊細に記した日記「花園院宸記」があり、法皇の人柄をしのぶことができる。
花園天皇十楽院上陵へのアクセス、行き方歩き方
京都市東山区粟田口三条坊町
地下鉄東西線 東山駅下車 徒歩約5分
市バス 神宮道 徒歩約3分