大阪城の謎を探る

大阪城の謎を探ると題するツアーに参加した。
大阪冬の陣夏の陣で家康の本陣となった天王寺から大阪城までを散策した。

2013年 6月 あべのハルカス近鉄本店タワー館オープン!
集合地のアベノ公園からあべのハルカスを望む。

四天王寺の南門から南へ300mの庚申堂(こうしんどう)は、庶民信仰に支えられる浪花の名刹で、かつては四天王寺の境内の一部であったそうだ。
ここは本邦最初の庚申さんだ。

庚申信仰の始まりが飛鳥・大宝元年というのは、後の時代(室町時代か)になって作られた四天王寺関係者の偽作といわざるを得ない。
ただ、室町時代の作といわれる「浪速往古図」に四天王寺庚申堂が描かれていることからみて、室町時代に実在していたのは確からしい。

各地で庚申さんが祭られており、夜の遅くまで起きていると云う共通点がある。
そこから、庚申の日に眠らず「庚申待ち」という慣わしが生まれたとか。
祭神は青面金剛童子や薩田彦神、三猿図などを祭るが、日本ではここが本家本元であった。

本堂の中は説法を聞く人達であふれている。

境内には木彫りの“見ざる・聞かざる・言わざる”を祀る『三猿堂』があり、庚申日には開帳されている。
建物も三猿像もまだ新しい。

西壁沿いの一画には聖観音像(1960建立)を中心に、古い庚申塔や板碑が十数基集められている。

庚申堂の北の超願寺に竹本義太夫(たけもとぎだいゆう)のお墓があります。

今日の浄瑠璃節は竹本義太夫がはじめたものです。

堀越神社はかつて創建当初から明治中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したのが社名の由来だといわれる。
また、古くから「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。

聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。

堀越神社境内に鎮座します茶臼山稲荷社は、古来より商売繁盛・厄除招福の神として人々の信仰を集めています。
その昔、天王寺 茶臼山の山頂に祀られておりました。
大坂夏の陣の際に徳川家康が茶臼山稲荷に危機を救われたことから、家康の信仰が厚かったと言われています。

「蟻の熊野詣」といわれるほどに賑わった熊野詣では目的の熊野三山遙拝野間絵に熊野権現の分霊を祀った九十九の王子社の巡拝しながらたどっていきます。
京の都から船で淀川を下り、上町台地へ上陸する天満の港に「窪津王子」がありました。

ここが熊野の出発点で九十九王子の第一王子窪津王子に参拝してお祓いを受けた後、熊野詣でに出発したといわれています。
この「窪津王子」はその後、四天王寺の正門鳥居近くの「熊野神社」に鎮座していたと伝えられていますが、後に堀越神社に合祀され「熊野第一王子之宮」として現在に至ります。

太上神仙鎮宅霊符尊神は「ちんたくさん」と呼ばれ、お守りやお札の元祖の神様です。
紀元前、中国前漢の孝文帝の時代に広まり、節分や七夕など星祭りはこの神様の家内安全、商売繁盛のお祭りです。

大阪市天王寺区 増福寺に建つ薄田隼人正の墓。
薄田隼人正(隼人)は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では侍大将に任じられた武将だが、その前半生の経歴は詳らかでない。
名は兼相、隼人正は通称名。

1615年(元和元年)の夏の陣では東西両軍が相まみえた5月6日の道明寺の戦いで後藤又兵衛、塙団右衛門など共々奮戦し、討死した。
講談本「立川文庫」のヒーローの一人である豪傑『岩見重太郎』のモデルと言われる。

生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
伝承によれば、神武東征の際に、神武天皇が難波碕(現在の上町台地)の先端に日本列島そのものの神である生島大神・足島大神を祀り、国家安泰を祈願したことに始まるという。

『日本書紀』孝徳天皇即位前紀には、天皇が難波宮造営に際して北隣する「生國魂社の樹(木)」を切ったとある。延喜式神名帳には「難波坐生國咲國魂神社 二座」と記載され、名神大社に列している。

鴫野神社(しぎのじんじゃ) – かつては弁天島(現在の大阪ビジネスパークの位置)に祀られており、淀殿が篤く崇敬した。

淀殿死去の後は淀姫社と呼ばれるようになった。
弁天島の用地売収にともない当社内に遷座した。
現在も「女性守護の神」として信仰を集める。
市寸島比売(いちきしまひめ)、大宮賣神(おおみやひめのかみ)、淀姫神(よどひめのかみ)が祭神。

米沢彦八が上方落語のルーツといわれており、元禄時代には、生国魂神社境内の小屋で、「当世仕方物真似」と看板を出して木戸銭を取り、小道具をつかって物まねしながら、笑いをとっていたという。

大阪の俄(にわか)の原型ともいわれている。
1990年、上方落語発祥の地として、境内に石碑が建てられた。
六代目笑福亭松鶴が「彦八の碑がないのは、なにわっこの恥だ」と口癖にしていたので、追善を兼ねたものであった。

生国魂神社境内芭蕉の句碑。
1694年(元禄7年)9月9日(重陽の節句の祭礼日)に奈良から難波に入り、ここ生玉で『菊に出でて奈良と難波は 宵月夜』の句を詠んだとされる。

この来坂は、芭蕉最後のたびであり10月12日、南御堂花屋仁左衛門宅にて客死する。

浄瑠璃神社 – 近松門左衛門ら文楽(浄瑠璃)関係者を祀る。
文楽だけでなく、広く芸能上達の神として信仰される。

近松門左衛門の『生玉心中』は生國魂神社の境内が舞台である。
近松の代表作『曽根崎心中』の冒頭生玉社の段も生國魂神社が舞台である。

この神社は、井原西鶴が、時間を区切って多くの句を詠む俳諧興行である矢数俳諧を二回にわたって催したことで有名である。
特に1680年(延宝8)の二回目は、独吟四千句を成し遂げたという。

のちに書いた浮世草子『好色一代男』では、主人公の世之介が、社前の池に舟を浮かべて楽しむ様子が描かれている。
西鶴自身は、作風とは異なり、実直で真面目な性格だったようで、境内にある銅像からはそんな雰囲気がうかがえる。

大阪らしいと思いませんか、融通さんには今も多くの参詣客が集まります。
なんでも融通してくれはるそうや。

地下鉄谷町九丁目駅のほど近くに佇む藤次寺。
開山は弘仁年間(810~824)と伝えられ、現在の住職、桑原昌道師で100代を数えるといわれる(詳細は不明)、真言宗の古刹です。

近松門左衛門の墓は、ビルとガソリンスタンドの間に挟まれたれた一角に墓地の入り口があった。

当初近くの法妙寺境内にあったが、同寺は大東市へ移転し、墓だけは現在地におかれ、押し込まれたようにして残っていた。
1980年(昭和55年)に整備が図られ、国の指定史跡となっている。

榎木大明神は、御祓い筋と長堀通りの角にある。
ご神樹は榎木ではなく中国から伝わった槐木(えんじゅ)とあると、祠においてあったしおりには書いている。

ご神体は白蛇という。

都市計画などで何度も伐採しようとしたが、常に伐採したものに事故が発生したので、伐採をあきらめたそうである。
大阪大空襲の時にはこの辺の類焼は免れたという。

不思議な力のある明神様である。
往時には、この大木は目印になった。
植樹したのは楠木正成公であると伝えられている。

16世紀末、豊臣秀吉が大阪城の外堀を作らせたが、上町台地の斜面にあって水をためられなかったのが、名の由来と伝わる。

「三光神社」は反正天皇の時代の創建と伝えられる。
創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。

社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。
かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。

中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現 宮城県仙台市宮城野区)の三光宮(現 青麻神社)を勧請し、そちらの方が有名になった。
明治15年の『大阪名所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになる。

明治41年(1908年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。

鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。
かつては大坂城の出城が置かれ、大坂の陣のときには真田幸村が大坂城から当地までの抜け穴を掘った。
その跡が社殿の下に残っている。

境内には真田幸村の像がある。

ここに陸軍墓地があることはあまり知られていない。
明治四年(1871)、当時の兵部省が大阪に陸軍を創設した際、日本最初の埋葬地として設置され、昭和13年に「陸軍墓地」と改称された。

大阪カテドラル聖マリア大聖堂
創立は1894年。
創立時に建てられた「聖アグネス聖堂」は1945年の大阪大空襲により滅失。
現在の大聖堂は1963年に落成した。

敷地が細川大名家の屋敷跡という由縁もあって、細川ガラシャ像、高山右近像が飾られている。

玉造稲荷神社は社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。
蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。

豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。
戦国時代の戦火で荒廃し、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建された。

元和元年の大坂夏の陣で社殿は再び焼失し、元和5年に徳川幕府の大坂城代や氏子らの寄進によって再建された。

社地は元々は急崖に面していたため、少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人らが運び込む「砂持」が行われた。
豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。
江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。

伊勢迄歩講起点碑
昔、お伊勢参りには玉造稲荷神社に参り、道中安全の祈願をして旅立ったといわれ、この旅を引き継いで始められた「初詣・伊勢迄歩講」(主催 大阪ユースホステル協会)の出発点がこの石碑である。

側面に「是より神宮まで百七十キロ」とあり、裏面には「勾玉の造(みやつこ)たちの頸飾り、菅の御笠にいざ旅立たむ」と歌が刻まれている。

豊臣秀頼公銅像 — 平成23年(2011)10月13日に建立・除幕式と新しい。

胞衣塚大明神 — 豊臣秀頼の胞衣を祀る。
当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていた。

昭和20年、戦災により焼失し、寺山町(現 上町一丁目)、東阪町(現 玉造一丁目)に遷座していた。
昭和58年(1983年)、大坂築城400年を記念して元の鎮座地に遷座された。子供の夜泣きに霊験ありとされる。

豊臣家奉納鳥居 — 慶長8年、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。
阪神・淡路大震災により下半分が壊れ、現在は上半分が境内に置かれている。

小野小町歌碑
昔、上町台地の東側は海水の浸入する江湾地帯であった。
生駒金剛連山を見渡す景勝の地であり、平安時代に至っては大和川が流れ、その玉造江を小町が通った際詠んだ歌という。

    湊入りの玉つくり江に
    こぐ舟の音こそたてね
    君を恋ふれど
             
                        「新勅撰集」より

「秋田實笑魂碑」と自然石を生かした、漫才作家・秋田實をしのぶ碑。
「笑魂碑」には、「笑いを大切に。怒ってよくなるものは猫の背中の曲線だけ」と秋田實さんの言葉が刻まれ、自然石の方には秋田さんの辞世の句「渡り来て うき世の橋を 眺むれば さても危うく 過ぎしものかな」が刻まれている。

千利休居士顕彰碑
豊臣時代、玉造禰宜(ねぎ)町の地で千利休が屋敷を構えていたと言われ、恒例の秋のだんご茶会も、秀吉や淀君、秀頼らが野点の利休の茶会を楽しんだという故事にちなんだものである。

仰向く顔に当る日を 神かざしの玉造 稲荷の宮居 ここもまた 伊勢の内外の内平野町
                       「ひじりめん卯月の紅葉」より

あつき日に 貫く汗の玉造 稲荷の宮に迷ふとの 闇は理 御仏も衆生のための親なれば 
                       「曽根崎心中」より 
                                              近松門左衛門

最終目的地の大阪城までたどり着いたがこれから場内一周ゃく2キロの散策が残っている
二番櫓跡から三番櫓跡を覗くと積石がめくれあがっているのがわかる。
これはきわめて危険な状態だ。

拡大して見ていただくとよくわかる。

二番櫓と三番櫓の間に、一部上部の石の欠落した部分があるが、そこから覗くと石垣の最上部が敵を防ぐためグッとせり出しているのがよくわかる。

四番櫓の西側、上部の石が少しせり出している、早い時期に修復しておいてほしいと思う。

石山本願寺推定地が大阪城二の丸にある。
修道館の隣にひっそりとある。
近くに封印された井戸のような物がある。

明応5年(1496)に、本願寺8世蓮如(1415-1499)が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立しました。
これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる初例といわれています。

大阪城に抜け穴がある?ってご存知でした?
今回紹介する抜け穴は、どの資料にも全く記載がなく、昭和34年の総合調査まで、400年近く、その存在すら誰にも気づかれずにきたらしい。

謎の抜け穴は、二の丸南面、六番櫓西側城壁の上から約15mの位置にある。

約1m角の穴がポックリと、石垣の石が1個抜け落ちたように空いている。
しかし、よく見ると決して石が欠けたものではなく、意図的な穴である。
真田丸の抜け穴より少し信憑性は高いかな。

秀吉時代の石垣が見られるって知ってました。
天守閣の正面、タイムカプセルの近くに今皆が覗いているような遺構を見たことありませんか。
いつもは頑丈に施錠してありますので見れませんが一般公開のイベントに参加し撮影した。

昭和三十四年(1959年)の大阪城総合学術調査でついに地下7.5mの所から、未知の石垣が発見されました。
石は、現在の大阪城の物と比べるとかなり小ぶりで、積み方も『野面積(のづらづみ)』と呼ばれる古い様式でした。

しかし、この時点ではまだ石垣は謎の石垣とされ、秀吉時代の物と断定するには至りませんでした。
なんせ、このあたりは石山本願寺もあり、難波の宮もあり、縄文人の住居跡も発見されている復号遺跡ですから・・・。

ところが、その翌年、偶然にも徳川幕府の京都・大工頭をしていた中井家のご子孫のお家から、豊臣時代の大阪城本丸図が発見されたのです。

その図と地下の石垣の位置を照合した結果、この石段は、3段に築かれた豊臣時代の本丸御殿を囲む石垣のうちの2段目・中ノ段帯曲輪(なかのだんおびくるわ)の石垣の一部であることが確定されたのです。

どうやら常時公開へ向けてのプロジェクトがスタートしそうです。
開発費は市民の寄付を募るようです。
そういえば今の天守閣も当時の市民の寄付によるものやなあ。

もう一つ、あまり知られてない事実を、今の大阪城は豊臣期の大阪城を埋め立てて徳川期に建てられたものであることは誰でも知っています。
徳川期の天守は戦争、火災を繰り返し、寛文5年(1665)に落雷で焼失、以後、江戸時代を通じて再建されることはなかった。

では今の天守閣は?
黒田長政が絵師に命じて描かせて、長く黒田家の所蔵だった大阪夏の陣図屏風図を、戦後に大阪市に譲られたとのこと。
今の天守閣を建設するとき参考にされたのがこの大阪夏の陣図屏風図、ということは徳川期の石垣の上に豊臣の城が建っているといってもいいのでは・・・・・・

今日は長い一日でした、約25,000歩、疲れました。
しかし、大阪城は何度も訪れているが、訪れるたびに新しい顔を見せてくれる。

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