戊辰戦争最大の悲劇 飯盛山の白虎隊

東北

会津領母成峠を急襲し、勝利した西軍はその勢いを駆って、会津盆地へ殺到してきた。
最後の防衛線十六橋が破られれば、城下への侵攻は時間の問題である。

直ちに藩主松平容保らが対策会議を開いた結果、急遽、猛将佐川官兵衛が十六橋防衛の総督に任命され、鮎川兵馬もそこへ配属された。
そして、若き白虎隊三十七士も、勇躍その防衛線の守りにつく。

「飯盛山」という名前の由来は、この山が飯を盛ったような形なので、この名前が付けられたという。

山へ登るのには2つのコースがあり、徒歩で登るコースと、エスカレータで登るコースがある。

厳島神社は古くから信仰の対象となっていた神社で永徳年間(1381~83)に勧請されたと言われています。
歴代の領主からも信仰され芦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏(松平氏)の崇敬社となりました。

特に会津藩三代藩主松平正容は元禄13年(1700)に社領の寄進や社殿の建立などを行いました。
寛政8年(1796)には別当である正宗寺の三匝堂(さざえ堂)が建立されるなど隆盛を極めましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により正宗寺が廃され厳島神社と改名されました。

戸ノ口堰洞穴
戊辰戦争の祭は白虎隊士中二番隊20名が鶴ケ城(会津若松城)に戻る際通った洞穴としても有名で、この後飯盛山から城下町が炎上しているの見て自刃しています。

自刃の地は白虎隊の墓より僅かに下った場所にあります。

戸ノ口原の戦いで敗戦した白虎隊が戸ノ口堰洞穴を抜け撤退した場所で、飯盛山から鶴ヶ城(会津若松城)が燃えていると錯覚し(実際は鶴ヶ城付近の武家屋敷が火災にあっていた。)

この場で自刃したことでも知られています。
白虎隊は主に10代の少年が主流となった部隊で、当初は40名で組織されましたが戸ノ口原で銃撃戦となり20名が戦死、残りの19名が飯盛山で自刃し、飯沼貞雄ただ1人が自刃したが傷が浅く助け出されました。

新政府軍は会津藩側の戦死者の埋葬を禁じていましたがその後許され明治17年に自刃の地、飯盛山中腹に白虎隊19士の墓(後、31士の墓を建立)を建てました。

この場所からは会津若松市中心部が一望でき当時を思い起こすことが出来ます。
案内板によると「 戸ノ口原の戦に利あらず白虎隊士20名が西軍の追撃を受けながらやむなく戸ノ口洞穴をくぐり、この地に辿り着いた時は鶴ヶ城附近の侍屋敷が大火災を起し、天守閣は炎と黒煙に包まれており、主君のもとに馳せ帰るべき最後の望みを失われた。

最早や落城は目前に迫る吾等君国に殉ずるはこの機なり、と全員遥かにお城に拝し従容として自刃し相果てた聖地である。」とあります。

写真中央に広がる緑の中程にある鶴ヶ城は、肉眼では判別するのが難しい。

八月二十三日(新暦十月八日)自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。
約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました。

現在の形に十九士の墓が建てられたのは明治二十三年で、二度にわたり墓域が拡張されました。

白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦士した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑。

会津藩殉難烈婦の碑は飯盛山の白虎隊の墓付近にあります。
案内板によると「 この碑は、会津藩戊辰戦役で自刃又は戦士した婦女子二百余名の霊を弔うため昭和3年4月旧藩士山川健次郎氏(男爵、理学博士、帝大総長)等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。」とあります。

吉田伊惣次篤志碑
白虎隊士の遺体の惨状を見かねて、その遺体を密かに埋葬した(実際には伊惣次は後方部隊の使役に駆り出されていて、妻の左喜が埋葬したのが事実のようである)。

左喜は人夫を何人か雇い、夜間数回にわたって白虎隊士の遺体を2キロ離れた実家の菩提寺である妙国寺に埋葬した。

遺体は4体といわれているが、正確なところはわかっていない。
また飯盛山の墓地にも埋葬されたというが、その数も明らかではない。

これが西軍黒羽藩の知るところとなり、軍監中村半次郎の命により、左喜に代わり夫の伊惣次が捕えられ投獄された。

しかし、この行為は会津藩士の命ではなく、村民の気持ちから出たこととわかって、伊惣次は釈放されたが、埋葬された白虎隊士の遺体は西軍の手で再び掘り返され、野に投棄された。

松平容保(かたもり)公弔歌の碑・・・
戊辰戦役当時、自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し、九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれたのを、現加東町八田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑に刻み建てたもの。

・・幾人の涙は石にそそぐとも
   その名は世々に朽ちとぞ思う・
・  源 容保   
  (※案内板から)

白虎隊ただ一人の生き残り、飯沼貞吉翁を紹介した説明版。

飯沼貞雄の墓

案内板によると「 白虎隊士自刃者唯一の蘇生者、飯沼貞吉少年(後貞雄と改めた)は印出新蔵の妻ハツに助けられ、後通信省の技師となり仙台通信局工務部長に進み、通信事業に挺身と多大の貢献をなし昭和6年78才で仙台市において没した。

白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。
昭和32年9月戊辰戦役90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によって、ここに墓碑と顕彰碑が建てられた。」とあります。

貞雄は生き残った事を生涯悔い会津若松には近寄らなかったと言われ、遺言により白虎隊の墓近くに昭和32年(1957)に遺骨の一部が分骨され埋葬されました。

酒井峰治の場合は、戸の口原から若松城に行く途中で、仲間とはぐれたのが不幸中の幸いだった。
山の中で仲間とはぐれ、山の中をさまよっていました。

途方に暮れた酒井はその場で自害をしようとしました。

その時、百姓が現れ自刃をしようとしている酒井を止めたのです。
「早まるんじゃない!」と。
その百姓は、酒井に農民の服装を着せて、城へ戻ろうとしました。

そのとき、不思議な事が起こります。

酒井の元に一頭の犬が駆け寄ってきました。

「クマ!!」

酒井は、叫びました。

その犬は酒井の愛犬クマだったのです。
クマは酒井に飛びつき、主人との再会を喜んだそうです。
その時の酒井の心境はこのようなものでした。

「(クマは)止まって余を仰ぎ見るや、疾駆し来たりて、飛びつき喚起に耐えざるの状あり。
余もまた超然として涙なきあたわず」

クマとの思わぬ再会に、酒井は涙を止める事が出来なかったそうです。
そして、酒井は無事に若松城に到着。
若松城で官軍と戦ったそうです。

中腹には、日本では大変珍しい木造建築物栄螺堂(さざえどう)(旧正宗寺三匝堂)がある。
上りと下りで同じ道を通らず抜けられるという仕組みで、国の重要文化財に指定されており、これ目当てで観光に来る客も多い。

宇賀神堂はさざえ堂の境内に隣接した所にあります。
創建は寛文年間(1661~1672)に会津藩三代藩主松平正容が宇賀神を勧請し弁財天像を神像として社殿を建立した事が始まり。

社殿は桁行3間、梁間2間、入母屋、銅板葺きの建物で中には戊辰戦争で飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置してある。

独り言

白虎隊の隊長は現場から逃走していた!?

その人物の名は日向内記(ひなたないき)。
白虎隊士中ニ番隊隊長として、慶応4年(1868年)、8月22日、上級武士の子弟16、17歳で構成された白虎隊士30数名を率いて戸ノ口原に出陣するも、予想を上回る西軍の猛攻に成す術なく退却を余儀なくされる。

菰土山(こもつちやま)の陣地で一時待機するが、この頃の8月は新暦で10月、冷たい雨が降りしきる中、食料もなく空腹に堪える隊士らを見た日向は、隊長自ら食料調達に出向くことを決する。

残された隊士らは寒さ、飢え、疲れで途方に暮れ、敵の攻撃が強くなったのを境に退却。途中、滝沢山麓では何人かが逸れ、弁天洞門を潜り飯盛山に辿り着いたのは20名だった。
飯盛山から見える会津城下は、敵の攻撃だけでなく、会津藩兵らが放った火によって地獄絵図と化していた。
立ち上る黒煙に鶴ケ城が見え隠れした。

疲労困憊の白虎隊士20名らは戦わずして自刃を決めた。
これが“白虎隊の悲劇”である。

日向内記は隊士らと離れ離れになった後、どうにかして鶴ヶ城に辿り着き、生き長らえた白虎隊士らで新たに組織された白虎隊の隊長に再選された。

郡上藩の凌霜隊も指揮下において西出丸口で奮戦、籠城戦を戦い抜いている。
日向が士中二番隊の自刃を知ったのは会津藩が降伏開城した後だった。

そして、日向の不運は戊辰戦争後から始まる。
戊辰戦争に敗れた会津藩は、北辺の地の田名部に新生“斗南藩”を再興すべく、旧藩士家族ら1万7千人が陸路、海路を経て移住した。

その中には日向一家の姿もあった。
寒冷不毛の地での厳しい開墾作業が軌道に乗るまで政府の救助米に頼るが、割当少ない救助米を補充するために山野の葛や蕨の根を掘り起こして澱粉とし、海岸に出向いては昆布、若布などの海草を拾って食いつないだ。
山鳩も捕って食した。

地元の人間からは“会津のげだか(毛虫)”と呼ばれ蔑まされた。
そうまでしても栄養失調者は続出、着る物も真冬の厳寒時に夏物の単衣を重ねて凌ぐ有様だった。
そんな飢餓地獄の中、日々の苦しさの吐け口がいつの間にか日向に向けられるようになった。

“白虎隊を置き去りにした卑怯者”
同郷者からそう罵られるようになった。

明治4年(1871年)、廃藩置県が施行されると同時に、藩知事であった幼い松平容大(かたはる)と容保親子は斗南を去り、斗南県は弘前県に合併、さらに青森県に改められた。
会津藩再興の地“斗南”はこの時、消滅した。
主が去り、国を失って、精神的支柱を失くした旧藩士らは身も心も難民となった。
女子供の身売りにまで及ぶ飢餓地獄から脱するには故郷の愛する山河に帰るしかなかった。
斗南に移住した人間の約6割が会津に戻ったと云う。

日向一家も会津に戻るが、数年振りの懐かしい会津の地でも日向に対する怨嗟の声は止むことなく、そのため満足に職に就くことも出来ず、日向にとって会津は最早安住の地には成り得なかった。

止むなく喜多方に移住するが、ここでも卑怯者呼ばわりされ、日雇い仕事で糊口を凌ぐほかなかった。
明治18年(1885年)11月14日、喜多方で失意の内に59歳の生涯を閉じた。

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飯盛山へのアクセス、行き方歩き方

住所:福島県会津若松市一箕町八幡
電話:0242-39-1251 (会津若松市観光課)

JR会津若松駅→まちなか周遊バスあかべえ(4~11月運行)で4分、バス停:飯盛山下下車、徒歩すぐ。
またはハイカラさん(通年運行)で46分、バス停:飯盛山下下車、徒歩すぐ