賤ヶ岳 雨の登頂


昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。

リフトの真下に群生のシャガ(射干)の花は、4月末~5月初旬が見ごろです。

なお、賤ヶ岳の名前の由来についても諸説あるようですが、山中にある説明書きによれば、弘法大師がこの地に立ち寄ったとき地元の女性から「西の方に高い山には賎が住んでます」と言われたことから、この山を「賎ヶ嶽」と呼ぶようになった、とあります。

奥琵琶湖パークウェイ、つづら尾崎が見えています。

約18.8kmのドライブウェイに樹齢20年から25年の桜が約3,000本咲き乱れます。

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安土桃山時代、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた豊臣秀吉と、織田家の旧臣中第一の家柄を誇る柴田勝家との間で権力争いが生じ、ついに武力をもって決着を付けようとしました。

これが俗にいう「賤ヶ岳の合戦」です。
余呉湖を挟んで、両軍は北と南で睨み合っていましたが、天正11(1583)年の4月20日の未明、勝家側が大岩山に奇襲攻撃をかけた時に始まり、秀吉が勝利を手にするまで、わずか2日足らずで終わっています。

辺りは、あまたの屍体で埋め尽くされ、余呉湖が血で紅に染まったといいます。

斬りこみ一番槍の功をたてた、世に名高い秀吉旗下の「賤ヶ岳の七本槍」の活躍はこのときの武勇伝です。

賤ヶ岳の山頂広場には、戦跡碑や、戦没者の碑が立てられており、尾根続きの大岩山頂にも、秀吉側の武将中川清秀の墓があります。

さらに、北麓には広い範囲にわたって、両軍の戦死者の墓や遺跡が点在し、南麓の山梨子(やまなし)集落には、落人伝説が残されています。

余呉湖への径。

余呉湖には湖の琴」という水上勉作の悲しい物語があります。

大正末期、若狭から賤ヶ岳の麓の西山の生糸製造農家へ奉公に来た「さく」と「宇吉」はお互いに惹かれるところがあり、助け合いながら暮らしている。

さくは京都の長唄の師匠「桐屋紋左エ門」に見初められ、京都へ移る。

やがて師匠の子を身ごもったさくは西山へ帰り、心優しい喜太夫夫婦に慰められ、宇吉と一緒にいることの幸せをかみかめる、自分の身体は穢れていると嘆き、お腹が大きくなって隠し切れずに自殺する。

宇吉はさくを余呉湖の深い淵へ沈めることを思いつき、その遺体を入れた箱に自分も入れて余呉湖に身を投げる。

雨脚が一段と激しくなり、つづら尾崎も霧に包まれます。

登ってきたリフトの駅からの径も霞みます。

賤ヶ岳の七本槍の話は譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。

福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」(中傷の意図も否定できない)と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌った(今日の研究では清正の立身は羽柴家の財務・民政における功績の部分が大きく、賤ヶ岳の戦功は異例に属していたとされる)などの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。

無名の戦士が霧の中に佇む。

無名の戦士像に後ろ髪惹かれながら下山した。
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