松島瑞巌寺

詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺。
平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。
古くは松島寺とも通称された。

毎年、11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる。
また、平泉中尊寺・毛越寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。

江戸時代に入って伊達政宗が禅僧虎哉宗乙の勧めで円福寺復興を思い立ち、慶長9年(1604年)から14年(1609年)までの工事で完成させた。

今に伝わる桃山様式の本堂などの国宝建築はこの時のものである。
このとき寺の名を改めて「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と称した。

参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、2011年3月11日の東日本大震災の津波に見舞われしまい、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。

大正12年9月、松島湾で捕れた鰻の供養として地元民の寄付金で鰻塚が建立された。

岩窟群遺跡
死者の浄土往生を祈念した岩窟でしょうか、内部の壁面には卒塔婆や仏像、法名を彫った跡が数多く見られます。
寺の案内によりますと、ここで修行僧が起居したと伝えられています。

庫裡(くり)<国宝>
庫裏とも書きます。
禅宗寺院の台所。

大屋根の上にさらに煙出しが載っています。
他にない巨大さで、本来実用本位の建物に唐草や花肘木の彫刻が施されたことに、政宗公の美意識をうかがえます。

宝華殿への通路は岩をくり抜いたトンネルです。

宝華殿はこの坂を上りきったところにあります。

宝華殿(陽徳院(愛姫)御霊屋:みたまや)

仙台藩主・伊達政宗の正室愛姫の廟所
内部は三方板壁で金箔、極彩色の花が描画
平成18年から3年をかけて創建当初の姿に復元

多分に江戸期の落書き。
朱印や納経のための練習のつもりか。

この部屋は以前登竜門を出入りする人物の監視の役目を果たしていた。

瑞巌寺の庫裡にある仏像。
東京芸大教授高村光雲作とあるから、詩人・彫刻家の高村光太郎のお父さん。

彫刻 登竜 城所ケイジ師作
平成24年5月4日,未曽有の大震災の被害がいまだ色濃く残る東北の復興支援活動として,製作された彫刻がこの「登竜」である。

作者城所ケイジ師はチェンソー彫刻世界一の彫刻家であり,数多くの彫刻を全世界に残している。

宮城県内では瑞巌寺での作品を端緒とし,各所に龍王彫刻を製作していく計画である。
この彫刻の原木は東日本大震災の津波塩害により伐採した瑞巌寺参道の杉を使用している。

瑞巌寺登竜門にちなんで鯉が滝を登り龍になる姿を製作している。

「法身窟」(ほっしんくつ)とは、北条時頼が諸国行脚中この場所にて法身和尚(真壁平四郎)と出会った岩屋である。

瑞巌寺には歴代高僧の内、四大高僧がいたといわれ、鎌倉期の「法身禅師」という禅僧もその一人であるという。 
俗名を「真壁の平四郎」といい、今でも語り人となって登場している。 

若年の頃、城主・伊達正宗の下僕を勤めていたが或る宴のあった冬の日、履物を懐で温めて城主を待っていたところ、履物を尻に敷いていたと誤解され、額を割くほどに激しく撲られた。
 
これをきっかけに平四郎は政宗のもとを去り、出家して後に高野山や中国・宋に渡って修行を積んだ。 
帰国後、京都・妙心寺の住主となり、更に諸国遍歴の旅中、松島の延福寺(瑞巌寺)に滞在し、岩窟にて修行していたといわれる。 

その時、鎌倉執権・北条時頼が東国遊行中、延福寺(瑞巌寺)に立ち寄り、時頼が岩窟に入って休息していた時、岩窟には先住の修行僧がいて二人は意気投合し、法談問答などで時を重ねたという・・。

この岩窟での出会いから10数年後、縁あった「執権・北条時頼」に援助を戴き、法身禅師による臨済宗・円福寺を再建したという。

あの時、法身禅師が禅修業した岩窟を「法身窟」といい、今でも参道脇に現存している。

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瑞巌寺へのアクセス、行き方歩き方

瑞巌寺公式サイト

住所:宮城県宮城郡松島町松島字町内91番地
電話:022-354-2023 fax 022-354-5145

仙石線  JR松島海岸駅より徒歩5分
東北本線 JR松島駅より徒歩20分

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