南北朝の哀史をとどめる金剛寺


山号は天野山(あまのさん)。
高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。

鎌倉時代末期には100近い塔頭があり、後醍醐天皇と近しい関係を築き、南北朝時代には観心寺と共に南朝方の一大拠点となった。
延元元年/建武3年(1336年)10月1日には後醍醐天皇によって勅願寺とされた。

また、この時の綸旨には「皇統の長久を祈るべし」とあるが、数百通ある後醍醐天皇の綸旨の中でこのような文言が書かれた綸旨は他にはない。

また、室町幕府に追われた後醍醐天皇の護持僧である文観をかくまっている。

つい先日落慶法要が営まれたばかりの金堂。

御影堂

食堂(じきどう)

庭園の緑がきれいです。

宝物殿

正平9年/文和3年(1354年)3月には大和国賀名生から北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・廃太子直仁親王を当寺に移動させると観蔵院をその行宮とし、10月には後村上天皇自身も到来し、摩尼院を行宮として食堂を政庁天野殿(あまのでん)とするなどして南朝の本拠地とした。

正平10年/文和4年(1355年)には光明上皇を京都に返し、正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返された。

そして正平14年/延文4年(1359年)12月には後村上天皇も観心寺に移った。

光厳・光明・崇光 北朝三上皇の御座所

先年、他の取材で金剛寺を訪れた時、その幽居の跡をみて、私はなんともいえぬ感慨に
打たれた。下の書院には、後村上天皇が、上の庵室めいた離れには、北朝の上皇方が、肩をつき合わすように暮していられたのだ。それはお互いに犬そう間の悪い、油断のおけぬ日々だったに違いない。

そして、血で血を洗う争いが、いかに空しい地獄であるか、心の中では痛感されたであろう。半世紀にわたる乱世の間、辛い思いをされたのは南朝の天子・・・・・・

白洲 正子のエッセイ 「かくれ里」の南北朝哀史。

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