猪伏山 千亀利城と呼ばれた岸和田城

大阪府

岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから蟄亀利城(後に千亀利城)と呼ばれるようになった。

城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて、縁結びの神社として知られている。
桜の季節は花見の名所となる。

南東から見た本丸と内堀。
手前部分は横矢を掛けるために張り出す縄張りとなっている。
建武元年(1334)、後醍醐天皇の建武の中興によって楠木正成が摂津・河内・和泉三国の守護守護となり、一族の和田新兵衛高家にこの地方の代官を命じ居城を作らせた。

元々岸と呼ばれていたので、高家のことを「岸」の「和田」、即ち「岸和田」と呼ぶようになり、居城も岸和田城と呼ばれるようになった。

岸和田城には、和泉砂岩という壊れやすい石を多く使用している石垣を補強する為に作られたといわれている『犬走り石垣』という周堤帯があります。
1999年6月28日の豪雨で、城の石垣が崩れ、現在は一部を強度のある花崗岩で補修され色の違う石垣が見受けられる。

羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとした。
松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。

文政10年(1827年)に天守を焼失。
以降再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却された。
左手奥に五風荘が見える。

復興された多聞櫓・隅櫓~左に櫓門と後方は天守。
岸和田は、“天下の台所”大坂に近く、大坂湾岸の南の防衛線として非常に重要な地でした。

岡部宣勝が岸和田藩主に任命されたのは紀州藩の動向を監視するためとも伝えられていますが、岸和田城の城構えからみて、むしろ大坂側の守備に重点をおいていたことがうかがえます。

尼崎藩とともに岸和田藩は大坂防衛の役目を担っており、参勤交代でも岸和田藩主と尼崎藩主がともに国元に不在にならないように配慮されていました。

百間堀
百間堀の名前はお堀の横幅が百間あるという意味ではなく、お堀を渡るのに百間もあるという意味です。

金沢城の百間堀が有名ですが、敵側に誤情報を与え、大きなお堀を強調する意味の命名と思われます。

二の丸には「二の丸御殿」と伏見城から二の丸北隅に移築されたとされる「伏見櫓」があった。
戦国時代まではこちらが本丸であったと思われ面積は約8000m²ある。
現在は二の丸公園として整備されている。

皆吉爽雨の句碑。
城山へかつ天守へと登高す
昭和四三年岸和田城址に建立。

皆吉爽雨(1902-83)は高浜虚子派の歌人、昭和二〇年二月岸和田に疎開、数年を過す。
旧岸和田藩主の岡部長景公とも親交があったそうです。
第一回蛇笏賞受賞記念。

二の丸には藩主が居住していた二の丸御殿、その北隅には伏見城から移築した三層の伏見櫓が建てられていたが、明治維新の際に破却され、石垣と堀の一部を残すのみとなった。

二の丸出口近くに「二の丸多聞」という建物があったが、なんと中は公衆便所だった。
旨いこと考えたというべきか・・・

二の丸にある心技館、市民道場です。
現在も居合道などで利用されているようです。

河野繁子 歌碑。
めぐりつつ 登り来りし高殿の 俯仰の視野に 花あふれたり

本丸への虎口(復興多門櫓)、桜の紅葉が始まっており、きれいだ。

岸和田城址碑

城址碑横にある甑(こしさ)用大釜(酒造用につかわれていた大釜・外径180㎝・150cm・深さ130㎝・容積1800ℓ)。
信貴本家酒蔵から寄贈されたもののようですが、野ざらしとは・・・。

岡部氏紀念碑
岡部長盛の子宣勝は大垣藩主・播磨国竜野(兵庫県竜野市)・摂津国高槻(高槻市)藩主を経て、寛永17(1640)年岸和田藩主となりました。

以後、明治4(1871)年の廃藩置県によって東京に移住するまで13代約230年の間、岡部氏が岸和田藩を治た。
有名な岸和田だんじり祭りは岡部氏3代目岸和田城主長泰が城内三の丸に伏見稲荷神社を勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭りに領民の参拝を許したことが起源とされる。

岸和田城の三角点には立派な蓋石がある。重いこの蓋を開くと、二等三角点の大きな標石が埋められていた。

犬走りとは城の石垣と堀の間の空き地をいう。
彦根城、岸和田城など多くの城で見られる。

敵に侵入の足掛かりを与えてしまうなど、防御の面からは決して有利とはいえない構造だが、石垣、土塁の崩落を防ぐための構造的理由で設けられたという見方がある。
なお、石垣の内側に設けられた小径は「武者走り」といい、若松城などに類型が見られる。
沖縄のグスクに見られる石垣天面の通路も犬走り(または武者走り)と呼ばれる。

小天守と大天守とが並んで建っています。
現在の天守閣は三層ですが、本来は五層の天守閣でした。

正保2年(1645年)に作られた岸和田城絵図には、熊本城や松本城のように、天守閣の壁に立派な腰板が張られている姿が描かれており、天守閣の大きさは、30万石級の大名クラスの居城だとも言う。

天守閣の前の庭園では近くの小学生が写生をしていた。
一人の子がおじさん写してと絵を見せてくれた。
ところが後から後から僕も写して、私も写してとせがまれ、困ってしまった。

天守閣の前の庭園は八陣の庭といって、重森三玲の設計で、昭和28年(1953年)7月に着工し同年12月竣工した砂庭式枯山水庭園である。

諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、中央の大将と先端の天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣に石組みが配されている。

天守閣から八陣の庭を俯瞰したのだが転落防止用金網が写ってしまい残念。

天守閣から西方を見やると本来なら明石大橋が見えるのだが少し霞んでおり見えなかった。
上空には関空を飛び立った航空機が。

下に見えているのは「新御茶屋」、「薬草園」の跡地に明治4年(岸和田城の廃城年)から10ヵ月をかけて造営された「五風荘」。

回遊式の日本庭園で3000坪の敷地があり主屋と庭園を見渡せる3つの茶屋がある。
庭園の見学は自由となっている。
なお、五風荘は現在がんこフードサービスが日本料理を提供する店舗として活用している。
後でゆっくり案内します。


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岸和田城へのアクセス、行き方歩き方

住所:大阪府岸和田市岸城町9-1
電話:072-431-3251
南海電気鉄道蛸地蔵駅から徒歩7分