1970年閣議において飛鳥地域の出土品などを保管するための施設の建設が決定され、数寄屋風のコンクリート建築による資料館が建てられ、1975年3月16日に開館。
飛鳥時代における倭国の中心であった飛鳥地域で発掘された多くの出土品を展示するとともに、飛鳥地域の研究の最新情報を提供している。
正門を入ると、前庭には猿石が集まり、橋を渡ると須弥山石、酒船石、石人像から水が流れ目を楽しませる。
これらの石造物はレプリカ(複製品)で屋外展示としており、飛鳥の石造物の往時の様子がよくわかる。
画像は「須弥山石」というもの。
7世紀ごろのもので、明治時代に掘り起こされた、当時の庭園に置かれた噴水だったのだとか。
橘寺の境内にある二面石は、近世になって近くから運ばれてきたもので、石に彫られた2つの顔は人の心の「善」と「悪」を表しているとも言われている。
レプリカの二面石は、資料館の庭ではなく、常設展示室に置かれている。
石の裏側は平らに加工してあり、もとは他の石と組み合わせて使ったらしい。
吉備姫王墓には顔が二つある猿石があり、その近くから掘り出されたと考えている。
いずれも斉明朝のもので今も謎とされいている。
日本書紀 斉明朝の奇妙な記述
蘇我氏暗殺の現場に居合わせた女帝については余り芳しくない記述が多く、例えば正史の … 続きを読む →
山田寺の東回廊の復元模型、641年に建てられた初期仏教寺院だがが、1982年、東回廊だけ地中に倒れた状態で見つかった。
蘇我入鹿のいとこ蘇我倉山田石川麻呂(くらのやまだいしかわまろ)が、641年(舒明天皇13年)に建て始めた寺院。
このころ、各豪族が、盛んに造った氏寺の一つ。
石川麻呂は、入鹿殺害のクーデタに加わり、右大臣に任ぜられたが、649年(大化5)、反乱の疑いをかけられて、この寺で自害。
しかし、その後、彼の疑いは晴れ、皇室の援助で寺の造営は続けられて、7世紀の後半に完成した。
685年(天武天皇14)に完成した山田寺講堂本尊像の頭部。
この像は1186年(文治2)に興福寺東金堂に移されたが、のち火災にあって頭部だけが難を免れた。
球体のようなふくらみをみせる頭部は巨像の面影をとどめており、その相貌(そうぼう)はかなりの破損にもかかわらず生彩にとみ、ことに鋭い稜線によってあらわされた目鼻だちには若々しい生命感がみち、よく白鳳時代の特色を示している。
現在ブロンズの焼肌を呈しているが、右頬などにわずかに鍍金の痕が残っている。
飛鳥時代の武人
水落遺跡の壮大な「水時計」を再現した模型。
光で24時間を1分で表示しているが、そのあまりの気の長さに驚き。
漏刻とはサイフォンの原理を利用した水時計。
当館の模型は中国の故宮博物院に遺されている清代の漏刻を参考にしている。
おそらく、飛鳥の水落遺跡にも四段式の似たような形状の漏刻があり、飛鳥や藤原の人々に時を知らせていたのでしょう。
漏刻の人形が手にしている箭(目盛りが付いた棒)をよく見ると、少しずつ動いているのわかる。
川原寺の復元模型。
キトラ古墳の石室内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画がある。
四神は天の四方を司る神獣で、壁画は対応する方位に合わせて、東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎、北壁に玄武が描かれている。
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飛鳥資料館へのアクセス、行き方歩き方
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近鉄大和八木駅から橿原市コミュニティバスで飛鳥資料館前下車。(土・日・祝祭日の限定運行)