万葉の旅 大和三山を訪ねる 天香久山

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天香久山は標高は152.4メートルと三山の中では標高は2番目。他の二山が単独峰であることに比して多武峰から続く竜門山地の端にあたる。

天香山神社の祭神は、櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)。

山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち最も神聖視された。

天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめやま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。

古代より畝傍山とともに神事にもちいる陶土の採集場所として知られる。
天香久山には赤埴と白埴の2種があるとされ、赤埴は山頂の斑れい岩が風化したものとみられている。

天香具山神社の本殿(左右は春日神社と八幡神社)

境内にある「朱桜」(にわざくら)という古名で知られる「波波架の木」(ははかのき)は、その昔、占いに用いられたと言われている。

「古事記」の天岩戸神話には、天香具山の雄鹿の骨を抜きとって「朱桜」の木の皮で焼き、吉凶を占ったとあります。

持統天皇の歌
「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」 (巻1-28)

柿本人麻呂の歌
「久方の 天の香具山 このゆふべ 霞たなびく 春立つらしも」 (巻10-1812)

天香久山は万葉集には単独で9首詠まれており、全体で13首に登場する。

その中で香久山の表記は香具山、香山、香来山、高山、芳来山、芳山と一定しない。以下にその他の代表的な歌を記す。

舒明天皇の歌
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)

中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」 (巻1-13)

大伴旅人の歌
「わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故(ふ)りにし里を 忘れむがため」 (巻3-334)

作者不詳
「いにしへの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」 (巻7-1096)

藤原京より天香久山を望む。

天武天皇と持統天皇の時代を語るとき、「天武・持統朝」と括ってしまう例が多い。
持統天皇は天武天皇を哀史、遺志と事業を継承したと信じられている。

しかし、この夫婦の間に横たわる溝がわからなかったために、古代史に多くの謎が残されてしまった。

「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」 (巻1-28)
持統天皇は、歌の中で「王朝交代のチャンスが巡ってきた」ことを密かにアピールしている。

これは、「天の羽衣伝説」にほかならない。
おそらく持統天皇もこの「有名な説話」を巧みに利用し、王朝交代を暗示したのだろう。

持統天皇は旧豪族が支えてきた「王家」を、そっくりそのまま、藤原氏に譲り渡した。

藤原氏は天皇と律令(刑法と行政法)を私物化し、「魔法の杖」にして使い始めた。
藤原氏だけが栄える悪夢の時代が始まった。

多くの人たちが、「古き良き時代(飛鳥)に帰りたい」と思ったのは当然のことだった。

采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
志貴皇子  巻1-51

飛鳥の古都に立ってみれば、華やかな采女の袖をひるがえしていた明日香風は、都が藤原の宮(ふじわらのみや)に遷ってしまった今、ただただ空しく吹きぬけるだけ・・・

明日香風に吹かれながら古都に立つ志貴皇子、飛鳥浄御原宮はその跡だけを残して藤原の宮へ移ってしまった。

かつての賑わいも、華やかな衣裳の袖を翻して歩いていた采女の姿も、今はない。
荒れはてた宮跡には、あの時と同じ明日香風が吹いているのに ・・・。

志貴皇子だけではない、「万葉集」では古代人の多くがこぞって「古き良き時代の明日香に戻れるものなら戻りたい」と詠んでいる。

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天香久山へのアクセス、行き方歩き方

橿原市南浦町608

JR桜井線「香久山」駅下車 徒歩30分

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