701年の大宝令(たいほうりょう)に定められた軍団(軍隊)の印判が発掘された所。
軍団は全国に置かれ、普通一軍団は兵士千人で構成され、その兵士は成人男子から三人に一人の割で徴発された。
平安時代初め筑前国には4軍団があり、この印にある御笠軍団はそのうちの一つだったと思われる。
近くの水城小学校からは遠賀団印が出土している。
太宰師(そち)大伴卿(まへつきみ)の歌二首
わが岡にさ男鹿(をしか)来鳴く初萩(はつはぎ)の花嬬(はなづま)問ひに来鳴くさ男鹿 巻八(一五四一)
わが家近くの岡に男鹿が来て鳴いているよ。
初萩を花妻として言問いに来て鳴く男鹿よ。
この辺りは、大宰師(だざいのそち) 大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅跡と伝えられています。
この歌は太宰師(だざいのそち)の大伴旅人(おほとものたびと)が詠んだ二首の歌のうちのひとつ。
題詞に「太宰師」とあるので大宰府に赴任中の歌でしょう。
「花妻(はなづま)」とは萩(はぎ)の花のことで、 鹿がいつも萩に寄り添うことから萩の花を鹿の妻だと見立ててこのように呼びます。
この歌でも「わが家近くの岡に男鹿が来て鳴いているよ。
初萩を花妻として言問いに来て鳴く男鹿よ」と、そんな花妻を求めて鳴く男鹿を詠った一首となっています。
大伴旅人は大宰府に赴任してきてすぐに妻を亡くしていますが、あるいは妻問いに鳴く男鹿に自身の姿を重ねて見たのかも知れません。
太宰府市の坂本八幡宮は、応神天皇を御祭神としています。
「圓満四王寺縁起のよると、嵯峨天皇弘仁2年(811年)辛卵二月勅宣にて四王院に釈迦の像を造立し、有智山寺の沙門鳳詮法及行願具足の僧十一輩を移し開眼供養を遂げられ水田五十町を寄付した給ふ鳳詮法師は坂本に住して善正寺と号す。
又坂本坊と呼り」とされている。
平安時代には、この坂本地区に四王寺の座主坊としての善生寺が成立していたとされています。
大宰師大伴卿(だざいのそちおおとものまへつきよみ)の凶問に報(こた)へる歌一首
世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり 巻五(七九三)
世の中がじつは空しいものだと思い知ったとき、いよいよますます悲しみが深まることだなあ。
この歌は万葉集巻五の冒頭に置かれた一首で、大伴旅人(おほとものたびと)の作。
大伴旅人は万葉集の編者といわれる大伴家持の父で代々の武門の名家出身者として九州で隼人の反乱を鎮圧するなどの活躍をした傍ら、赴任先の大宰府で山上憶良(やまのうへのおくら)らと親交を持ち、奈良の都のそれとは一風違った後世に筑紫(つくし)歌壇と呼ばれる多彩な歌を残しています。
旅人は太宰師として筑紫に着任した翌年、その地で妻の大伴郎女を亡くしました。
都から遠く離れた地で最愛の妻を亡くした喪失感は、旅人の心を想像以上に深く悲しませたようです。
そして今また、都から届けられた天武天皇の皇女、田形皇女の訃報。
「世の中は空しいものだと知識では知っていたけれど、こんなに不幸が続いて重なってくるとますます実感として思い知らされることだなあ。」との何のひねりもない歌の表現は、それゆえに旅人の実感がこもったもののように思われます。
妻を亡くした悲しみに沈んでいるときに、さらに都から届いた訃報は、旅人のこころをさらに重いものにしたのでしょう。
正月立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ [大貳紀卿]
むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ
睦月となり春は来ました
このようにして梅を招き迎えて楽しく一日を過ごしましょう。
[大貳紀卿](ただいにきのまえつきみ): これは名前ではなく、このとき太宰府の大弐(位のひとつ)だった紀氏の人。
紀朝臣男人 (きのあそみおひと) 682(天武11)~738(天平10)年10.30、卒す。この時正四位下大宰大弐。『懐風藻』によれば享年五十七。
<大宰府の長官大伴旅人は妻を亡くし悲嘆の日々を過ごしていたが、山上憶良や異腹の妹、坂上郎女が妻のかわりに世話をしに都からやってきたことなどから次第に元気をとり戻していた。
しかし長屋王の変を知らされた旅人は直ちに藤原4兄弟の一人藤原房前に日本琴を贈り、自分には政治的に争う意志のないことを表明し藤原氏からの圧力を避けたい気持ちを表した。>
太宰府跡(特別史跡)と背後の山は大野城が築かれた四王寺山、この山全域が大野城。
7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)とした。
その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説がある。
万葉集には”遠の朝廷(みかど)”と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残 り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。
大宰府展示館の中、天平2(730)年正月13日、大宰師大伴旅人の邸で梅花を題とする歌宴が開かれた。
その様子を博多人形で再現されている。
子らを思へる歌一首并せて序
瓜食(うりは)めば 子供思ほゆ 栗食(くりは)めば まして思(しの)はゆ 何処(いづく)より 来(きた)りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとな懸(かか)りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ 巻五(八〇二)
「瓜を食べていても今わが子供はどうしているだろうかと思い出させる。
栗を食べればあの子にもこの栗をを食べさせてあげたいなあとまして思い出される。
どんなに遠くにいても目に浮かんできて思い出され、安眠さえできない。」との子供への深い愛情は、今の世の人々にもすんなりと受け入れられる解説の必要すらないものです。
万葉時代の人々も子供を思う気持ちはわれわれと何ら変わらないものだったのでしょう。
巻五(八〇三)の反歌
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも 巻五(八〇三)
銀も金も玉もどれほどのことがあろうか。どんな宝も子供には遠く及びはしない。
大宰府と言えば天満宮の梅。
マンホールにもやっぱり市の花・梅が描かれています。
中央に市章。
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