古を偲ぶ 金ヶ崎緑地公園

北陸
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敦賀港のシンボル緑地で、海沿いに敷設されたボードウォーク・ボードデッキからは敦賀港を一望することができ。

周辺には赤レンガ倉庫や旧敦賀港駅(再現)、旧大和田別荘洋館を模した建物が特徴の資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」などがあり、港町敦賀のレトロでロマンチックなムードを楽しむことができる場所。

きれいな夕日を期待したが雲が多い。

芭蕉翁月塚 (敦賀市民文化センター)

気比の海
国々の八景更に気比の月
   芭蕉

この句は俳聖芭蕉翁が月下の気比の海即ち敦賀の海のあまりの美しさに感動して詠んだもの。

きらめきみなと館・五木ひろしの洋鐘

若狭湾出身の大歌手・五木ひろしが、敦賀港開港100周年を記念して「敦賀恋歌港歌」を歌った。

風を受けて進む北前船の連なる3つの帆をイメージして作られたモニュメントは、高さ8メートル、広場の直径は14メートルのサイズ。

夜には床面に設置された広角照明でライトアップされ、昼間とはまた一味違ったノスタルジックな空間を演出する。

中心施設の「きらめきみなと館」。

「欧亜国際連絡列車」は、明治45年6月から新橋‐金ヶ崎(後に敦賀港駅と改称)間で運行されていた。

ウラジオストク直行の船に連絡し、ウラジオストクからはシベリア鉄道を経由してヨーロッパへと通じていた。

当時、日本からヨーロッパへの移動は、船を利用して1ヶ月もかかる長旅でした。

欧亜国際連絡列車とシベリア鉄道経由のルートでは、東京-パリ間をわずか17日間で結び、多くの人々や文化を運んだ。
このことから敦賀はシベリア鉄道経由でヨーロッパと結ぶ玄関口だったといえる。

ユダヤ人難民の声がそこに

2008年3月29日に開館した「人道の港敦賀ムゼウム」は、1920年にシベリアで救出されたポーランド孤児、1940年にはナチスドイツの手から逃れたユダヤ人難民が、リトアニア・カウナスの領事代理杉原千畝が発給した“命のビザ”を握りしめ、敦賀港に上陸したことに関連して展示を行っている。

杉原千畝夫人・幸子氏来敦記念の植樹”の表示板が…

敦賀港の東側に2棟並んで建っている『赤レンガ倉庫』は、福井県内でも有数のレンガ建築物。

2009年1月には、北棟・南棟・煉瓦塀が国の登録有形文化財に登録された。
外国人技師の設計によって1905年に建てられた当時は石油貯蔵庫として使われ、数年前までは昆布貯蔵庫としても使用されていた。

戦国武将は皆、この地をターニングポイントにした。

敦賀湾を一望する小高い山、そこに『金ヶ崎城跡』がある。
延元元年(1336年)恒良、尊良両親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場。

戦いは激しさを極め、尊良親王ら300人は籠城から半年後、城に火を放ち自害。
中腹の金崎宮には、その両親王が祀られている。

また、この地には戦国時代の「つはものども」の気迫を今に伝える、数々の逸話も残っている。

―時は元亀元(1570)年4月。朝倉義景討伐を企てた織田信長が越前に攻め入ろうとしたその時、近江浅井氏裏切りの報が。

窮地に陥った信長だったが、金ヶ崎城でしんがりを努めた木下籐吉郎(豊臣秀吉)の活躍で、無事帰京できたという― 姉川の合戦で、浅井・朝倉連合軍を敗った信長。

そして、その信を受け天下取りの道を進んだ秀吉。
さらに、秀吉のしんがりを助け、後に謝意を受けた徳川家康…金ヶ崎城をめぐる出来事は、それぞれの武将にとって天下取りへの転換点となっている。

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金ヶ崎緑地公園へのアクセス、行き方歩き方

福井県敦賀市金ヶ崎町44

JR北陸本線敦賀駅からぐるっと敦賀周遊バスで8分、金ヶ先緑地下車すぐ