斑鳩の北の端、三井(みい)の里にある法輪寺は、聖徳太子の御子 山背大兄王創建とも伝えられ、飛鳥時代の仏像と、昭和五十年再建の飛鳥様式の三重塔で知られている。
三重塔は1944年、雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたもの。
斑鳩の里はちょうど稲刈りも終わりのどかなたたずまいを見せる。
この辺りの休耕田にはコスモスが植えられ散策する人の心を和ませる。
三井寺と言う別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりと言われている3つの井戸があった所から来ている(3つの井戸のうちの1つが現存し、国の史跡に指定されている)。
現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。
焼失した塔は、近隣の法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった。
幸田文と三重塔。
ことの発端は、たまたま文が岩波書店に用事で出向いた時に、やはり岩波書店へ寄付を願いに訪れていた住職の井上慶覚と出遭った、ということらしい。
三重塔焼失の様子、再建の経緯を直接住職から聞いた。
この三重塔再建の話は文の心のしこりにしみた。
なんとか役に立ちたいと、瓦一枚の寄贈から始め、さらには前進座が『五重塔』を上演する際の著作権使用料20万円を寄付、これを機に折々寄進をするようになる。
が、ここまでは一寄進者の範囲にとどまっていた。
ところが1969年(昭和44年)、募金活動を続けていた住職・井上慶覚が肺癌で亡くなり、折柄翌年に万国博覧会を控えて関西地方は空前の建築ブームを迎え、職人達の人件費が急騰、当初の予算では三重塔再建は全く立ち行かない状態に陥っていた。
再建の中心的存在を失って、募金も難航していた。
人気のない境内に材木小屋から「のみ」の音が淋しく響いていた。西岡楢光老人、長男常一、次男楢二郎のたった三人が木造りする音だった。
幸田文は塔再建の大きな貢献者であるが、執念ともいえる支援活動へ突き動かしたのは何だろう。
よく言われるのは、父、露伴の名作『五重塔』の影響であり、自らも認めておられるようだ。
だが、一年余り居を移して建築工事を見守る情熱は、宮大工の仕事へのなみなみならぬ関心があったからだと想像する。
がんらい職人気質の作家は、高度な職人の技をもってする塔再建という企てにロマン以上のエモーションをかきたてられたのだろうか。
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法輪寺へのアクセス、行き方歩き方
奈良県生駒郡斑鳩町三井1570
0745-75-2686
JR大和小泉駅から徒歩15分
JR法隆寺駅から徒歩約35分