井伊家の名城 国宝彦根城

鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城である。
山は「金亀山」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。

天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は国の特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。
国宝指定の現存天守を持つ4箇所の城郭は姫路城・松本城・彦根城・犬山城を指す。

直弼は、埋木舎時代より文武に励み、いずれもその道を極めていきます。
和歌においても秀で、自作の和歌集を編纂したほどでした。

あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな

「琵琶湖の磯うつ波が、打ちくだけてはひき、また打ちくだけてはひくことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。
しかし、わたしは国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」歌には、直弼のこんな心情が詠まれています。

2ヶ月後の3月3日、直弼は桜田門外で水戸浪士らの凶刃に倒れます。
開国に揺れ動いた時代の中で、自身の信念を貫こうとした直弼の、まさに辞世の句とされています。

直弼の姓に藤原とあるのは、井伊家の初代当主共保が藤原氏後裔の氏族の養子で、元は藤原姓を名乗っていたことにちなんでいます。

<二の丸佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)>
入口に向かって左側は、佐和山城から移築されたもの。

佐和山口の枡形。
現在では車がどんどん走ってくるのでちょっと危ない。

「犬走り」とは、垣と溝の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分です。
犬が通る幅ほどしかないためにこう呼ばれるが、敵が侵入する際の足場になってしまうことから、何の設備かは正確にはわかっていない。
一説には石垣、土塁の崩落を防ぐための構造的理由で設けられたという。

埋木舎(うもれぎのや)は、旧彦根藩主井伊家の屋敷跡。
彦根城佐和口御門に近い中堀に面した質素な屋敷で、創建は宝暦9年(1759年)頃と見られる。
井伊家の十四男として生まれた井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの不遇の時期、天保2年(1831年)以後15年を過ごした屋敷として有名で、「埋木舎」は直弼の命名である。

この館は明治4年、払い下げによって大久保氏の所有になり、現在に至る。
1984年(昭和59年)の豪雪で倒壊したため全面的に解体修理、また翌年からは発掘調査が行なわれた。
今日では、直弼が住んでいたころのように復元され、内部も一般公開されている(有料)。

埋木舎には柳が植えられていた。
直弼は柳をことのほか愛し、号にも「柳王舎」を使うことが多かった。
また、直弼はある時、外出先で非常に立腹する事があったが、帰宅して庭に植えられた柳を見て
むっとして 戻れば庭に 柳かな
という句を読み心を落ち着けたと言われる。

彦根藩主の十四男として生まれた井伊直弼は5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父井伊直中(11代藩主)が亡くなり、弟の井伊直恭とともにこの控え屋敷(尾末町御屋敷、北の御屋敷)に入った。

300俵の捨扶持の部屋住みの身分であった。
3年余りして直弼20歳のとき、養子縁組の話があるというので弟とともに江戸に出向くが、決まったのは弟の縁組(直恭は日向国延岡藩内藤家7万石の養子となる)だけで、直弼には期待むなしく養子の話がなかった。

直弼はしばらく江戸にいたが彦根に帰り、次のような歌を詠んでいる。
世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は
自らを花の咲くこともない(世に出ることもない)埋もれ木と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけ、それでも自分には「為すべき業」があると精進した。

部屋住み時代の直弼は、のちに腹心となる長野主膳に国学を、さらに曹洞禅、儒学、洋学を学んだ。
禅では「有髪の名僧」と呼ばれるほどであったという。
書、絵、和歌のほか、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、乗馬、茶の湯など多数の趣味に没頭し、特に居合では新心流から新心新流を開いた。

安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した「たか女」の話はあまりにも有名だが花の生涯 たか女終焉の寺 金福寺に纏めています。

パネルは直弼の埋木舎時代、身の回りの世話をしていた女中の志津と里和。部屋住み時代、直弼に仕える女中はこの2名のみであったといいます。このうち里和は、直弼が彦根藩主となるとともに江戸へ同行して彦根藩江戸藩邸に暮らし、直弼の側室となっています。

座禅の間には花の生涯の関連展示が。

お産の間、展示用に金具の輪があり、そこに紐を通して産婦が力んで出産する部屋。
左の間が脱衣室、奥が浴室になっている。

花の生涯記念碑。

玄宮園からみた天守。
彦根城と言えばこのアングルがまず浮かんでくる。
玄宮園のシンボルである鳳翔台と臨池閣、右に七間橋の向こうに槻御殿(御書院)

中国の名園を参考に近江八景を現した美しい庭園です。
鳳翔台でお茶を飲みながらの景色は格別です。

園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。
天守を借景として、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。

楽々園の建物の全景。
江戸時代、「槻(けやき)御殿」あるいは「黒門外御屋敷」と呼ばれていた1815年10月29日、井伊直弼がこの屋敷で誕生した。

今回は黒門から入り表門へ抜ける。
黒門橋はかつては木橋だったが、現在は土橋に。
この橋がダムの役割を果たし、水を汲み上げて堀の水位を保っている。
小雨模様ですが 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

苔むした石垣が城の年月を語る。

黒門から本丸へ至る登城路の仕切り石垣

虎口を左に折れると西の丸の石垣沿いに登る。
ここは全面を石垣に囲まれ、どの石垣も高さ10m以上あります。
高い石垣は19.5mほどあるそうです。
この場所は井戸曲輪といい、第一郭で使う水を貯水する場所でした。

西の丸から見た天守閣。

この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓(つづきやぐら)を「く」の字に付設しています。
三重櫓には天守のように装飾的な破風(はふう)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗ぬりとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。

この建物は浅井長政居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。

なお、彦根藩主井伊家の歴史を綴った『井伊年譜』を見ると、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐(きまたとさ)に預けられていました。

当時、山崎曲輪に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月20日ほどこの櫓に出務するのを常としたようです。

西の丸三重櫓の外には、裏手からの敵の侵入を阻止するため、尾根を断ち切るように大堀切が設けられている。
大堀切に掛かる木橋の外にあるのが「馬出し」の機能を持った出郭である。
『井伊年譜』には、この出郭の石垣は、石工集団として知られる穴太衆が築いたと伝えられている。

堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、西の搦手(裏手)方面からの敵に備えた守りの要かなめでした。

西ノ丸三重櫓の内部。
階段が互い違いに設置されているのが目を引く。

部屋の周りに武者走が巡る。

彦根城から見た佐和山城。
駅を挟んで直線で1km余りといった至近距離である。

多景島も見えている。

太鼓門櫓側から見た天守閣。

本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓。
門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。

この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(手すり)を設置して1間通りを廊下にしています。
櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。

門を潜ったところ。ここから先は長い下り坂だ。

日本の音風景100選に選定されている『彦根城の時報鐘と虫の音』。
毎日、朝6時から夕方6時まで3時間ごとに鐘の音が城内と城下に響きわたる。

虫の音は、ヒグラシの蝉しぐれが7月下­旬〜8月下旬、スズムシやマツムシなど秋の虫は9月〜10月にかけて聞くことができる。

太鼓門櫓の東側からの天守閣。

天守の内部、驚くべきは天井の梁で、曲がりくねった木材を巧みに組み合わせて作られた天守や附櫓の梁からは、極めて高い建築技術をうかがい知ることができる。

二階は、3間×3間と2間×3間の部屋の周りに武者走が巡る構造で、花頭窓からの採光で、かなり明るくなっている。

戦のための城で、壁の鉄砲穴も、外からは見えない様に作られており、敵が中に攻め入っても、階段をのぼってくる敵を、上から突き落せるように急な角度(62度)になっている。

現存天守中、破風の数が最も多く、計18もある。
切妻破風の中に庇(ひさし)をつけたものは、他に例がない。

櫓に望楼をあげた古い形式の天守で、戦国から江戸時代への過渡期における貴重な遺構。徳川家康の命により、大津城の天守を移して、形を直して建てたという。

通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で「牛蒡積み(ごぼうづみ)といわれる石垣で支えられ、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。

各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。

鐘の丸周辺は彦根城の曲輪の中で一番堅固であったとか。 
大手口と表門からの登城道は、天秤櫓の下で合流する。 
寄せ手は鐘の丸を経なければ本の丸へとは進めない縄張りとなっている。

時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている。
この天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。
天守閣へはこの橋を渡らなければたどり着かない。

天秤櫓を下から仰ぎ見る。
天秤櫓と廊下橋(木橋)~鐘の丸と太鼓丸を分断する堀切部分。
廊下橋は、かつて屋根と腰壁が付いていた。

ここでは、縄張りの巧みさと天秤櫓を下からながめるのがお勧め。 
隠れたポイントは、鐘の丸下の帯曲輪みる高石垣と東西2ヶ所にある竪堀と登り石垣。

1854年ゅ安政元年ょに天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。
向かって右手が築城当初からの「ごぼう積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

「ごぼう積み」は外見粗雑に見えるが、頑丈な積み方で彦根城特有のものである。

この橋はいざという時には破壊して進路を妨げられるようになっている。

表門橋は、文字通りお城の表に架かる橋で、今はこの橋を渡っても石垣しか積まれていませんが、昔はその石垣の上に表門櫓があり、橋を渡って枡形の空間を通り抜けた次に表門櫓と表門口を抜けたのでした。

その先には藩庁と藩主の邸宅を兼ね備えた表御殿が建っていたのです。

表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が馬屋です。
この馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されています。

馬屋の建物はL字形をしており、佐和口の櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があるほかは、すべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっています

21頭もの馬を収容できた「馬屋」、彦根城の馬屋は、近世城郭に残るものとしては例がないほどの大規模なものである。

いろは松から望む外堀(旧中堀)と二の丸佐和口多聞櫓。
左後方は天秤櫓、右後方は天守。

ズームアップすればこうなっています。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの…」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。

明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではなかった。
しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたという。

この他に、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説もある。

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彦根城へのアクセス、行き方歩き方

住所:彦根市金亀町1-1
電話:0749-22-2742

JR琵琶湖線彦根駅、徒歩10分

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