乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い

名城の旅
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八尾・若江の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の陣(大坂の役)のうち、1615年(慶長20年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。

東大阪市岩田町3丁目 飯島三郎右衛門の墓

飯島三郎右衛門は、市内高井田村の生まれで、幼少の頃より弓道が得意で成人して、戦国武将織田信長に仕えた。

信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は、その子秀頼に仕えた>

元和元年(1615)年五月「大坂夏の陣」の若江、八尾付近の戦いで、木村長門守重成に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口伊豆守重信に槍で突かれ、この地で戦死。

重成、重信ともに戦死するという壮烈な戦いであったといいます。

また、三郎右衛門の戦死のこの地は沼地で大小の用水の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ「雁戸樋橋(かりんとばし)」という細い橋がありましたが、今も道路の下には昔と変わる事無く、楠根川にそそぐ水が流れています。

南北朝時代以来の歴史を残す若江城跡、現在の東大阪市立若江小学校の近くに石碑が建つ。

畠山基国は実力派の重臣遊佐長護と共に守護所を定める時点で河内に下向し、防衛に適してなお河内の政治を統括し、周辺の経済活動の中心としての将来性、周辺事態に対しての軍事行動が容易であるなど観点から、若江鏡神社が祀る大伊迦槌火明大神を城の守り神とし、神社に射す朝日を遮らぬようにその西側に城の中心を定めた。

長護は近隣の村落に檄をとばして農夫を集め、築城を開始した。

1382年、後に室町幕府の管領となる畠山基国によって築かれた若江城は、以後、河内国の要衝としてたびたび兵乱の舞台となった。

1573年、織田信長によって京を追放された室町幕府第15代将軍・足利義昭が羽柴秀吉の警固を受けて当地に入城したことでも知られる。

お城自体は1583年に破却されるが、大坂夏の陣に際して、東西両軍が当地で激しい攻防を繰り広げた背景に、かつての若江城が背負っていた地政学的な重要性があったことは充分に考えられます。

若江という名称の由来は河内国若江郡に由来する。

若江郡の若江は神功皇后の4年6月に大旱魃があり、この地域の農作物が大被害を受ける可能性が高まった際に、大般若経を唱和し雨乞いの祈願をしたところ、14日目に雨乞いは叶わなかったもののこの地に清水が滾々と湧き出し農作物が大被害を受ける危機から救われた。

このことから、大般若経の「若」と清水の源という意味の「江」をとり、若江郡と称せられたという。

また、一説に、古代の新開池は河内湖というほど大きく、その入り江のひとつが「若江」という名であったともいう。

東大阪市若江南2ー3-7の蓮城寺にある木村重成陣所跡。

蓮城寺・位牌堂にまつられている重成の肖像。

母親が豊臣秀頼の乳母であったことから、重成は幼少時より秀頼の小姓として仕えていたとされる。

夏の陣にさきがけておこなわれた冬の陣では今福砦の戦いで活躍し、その武勇を全国にとどろかせています。

当時、重成の本陣が置かれていた地には、現在、蓮城寺が建っており、その境内には重成の肖像画を安置した位牌堂も存在する。


蓮城寺の北東約150mには木村重成の像が建てられ、その後方には「木村長門守夫人負烈碑」なるものが建てられている。

木村重成と妻の青柳は、大坂夏の陣より少し前に結婚をしたが、戦国期の武将としては珍しい恋愛結婚だったという。

重成没後、残された青柳は尼になり、重成の一周忌を終えると自害してしまったといわれるが、夫人・青柳を偲んでのものでしょう。

木村重成に由来する地名として東大阪市若江南町1丁目には『若江木村通』という交差点がある。

木村勢と戦い、戦死した東軍の武将・山口重信の墓。

重成の墓と恩智川を挟んだ対岸には、山口重信の墓も残されています。

重信は井伊勢に参加していた東軍の武将。重信は旧領の回復を願って東軍に参戦していましたが、若江の戦いで戦死。

しかし、その死によって、重信の宿願は後にかなえられた。
重信のお墓は、1647年、重信の三十三回忌に際して建てられた。

若江名勝図会に描かれた木村、山口両武将の墓。

両軍の武将の墓が恩智川を挟んだ両岸に残されている点は当時の合戦の様子を伝えたものでもあり、東西両軍が激しい戦いを繰り広げた若江の戦いを象徴する構図であるといえるでしょう。

木村公園(八尾市幸町6-2)には木村重成の墓があります。

大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、 昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。

豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。

幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。

河内方面隊は藤堂高虎、井伊直孝を先鋒とし本多忠朝、前田利常、松平忠直など総勢55,000の兵で構成されており、立石街道から道明寺へ向かっていた。

そのあとに徳川家康、秀忠ら本営が続いた。

5月2日、豊臣軍では、河内口から来る幕府軍に対し、大坂城東方、大部隊の機動には適さない低湿地帯で迎撃することにし、木村重成の兵6,000が大坂城を出発した。

長宗我部盛親、増田盛次の兵5,300もそのころに出発したと思われる。

5月5日朝、木村重成は今福方面を視察し、こちらに幕府軍が来襲する可能性は低いと見た。
そこで徳川家康・秀忠本営に側面から迫るべく、若江に兵を進めることにした。

5月6日、木村重成は午前0時頃には出発したいと考えていたが、兵の集結が遅れ、午前2時頃にようやく出発できた。
途中道を間違え沼地で立ち往生するなど、木村自身や兵の練度に問題があり、進軍は順調にはいかなかった。

午前1時、井伊直孝は部隊に命令して食事させ、進軍の命を待たせた。

午前4時頃、藤堂勢の右先鋒藤堂良勝が若江に向かう豊臣軍を発見した。

幕府軍は勝手な戦闘は慎むよう命令されていたが、藤堂高虎は良勝の「豊臣軍は、家康・秀忠の本営への攻撃を企図しているのではないか、ただちに攻撃するべきだ」という進言をうけ開戦を決断、各隊に進撃を命じた。

午前5時頃、木村勢は若江に着陣、先鋒を3手に分け、敵に備えた。

その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけた。

藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。
木村は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようともくろんだ。

午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。
井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。

木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。

堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。
川手はさらに突進したが戦死した。

そこに庵原も加わり激戦となった。
木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。

山口弘定、内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅した。

五月雨や啼いて今夜は不如帰

重成辞世の句

美女堂遺愛石碑。

いまの若江北町に美女堂氏という旧家があった。

その祖は、摂津国多田庄(現在の兵庫県川西市多田)の出身であり、摂津源氏として知られる源満仲の四男で、名を美女堂丸といい、故あって河内国若江に住した。

その子孫相承けて近世に及んだが、明治時代に大阪に移った。
若江には美女堂川・美女堂田の呼称をのこし、この美女堂氏が栄えたころを物語っている。

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