中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からみて大航海時代の潮流を独り浴び続けたという意味において異様としか言いようのない光彩を放っているが、いまはわずかな痕跡を凝視して、よほど大きい想像力を働かせなければ、当時の栄華をしのぶことは困難である。 司馬遼太郎
南海線 堺駅の近くに、南蛮橋という橋があります。
堺旧港に注ぐ堅川にかかる橋です。
この橋の上に、ポルトガル宣教師宣がいます。
望郷の念に駆られているのかな・・・・・
「両手を欄干の上に置いているでしょう。実は、法律上は像じゃなくて欄干の一部です。道路法では、標識やさくなどの道路付属物以外のものは原則として置いてはいけないからね」
ネットで設置者の説明?を見つけ納得。
市役所から南海本線堺駅までの1.5kmの堺のシンボルロード。
南蛮壁画が盛時を彷彿とさせる。
「天文19年(1550年)12月 聖ザヴィエル、堺に上陸し日比屋了慶の館に入った。
「是(こ)れ西洋文明伝来の始(はじまり)で近世日本文化は茲(ここ)に花と匂った。」とある
フランシスコ・ザビエル来航400年である昭和24年(1949年)の公園開設時に設置された。
じつはザビエルは、全国での宣教の許可を得るために天皇ならびに足利将軍への拝謁を試みており(失敗に終わったのですが)、山口から京都へと海路で向かう途中、堺に上陸し、この公園の場所にあったキリシタン豪商・日比屋了珪(ひびや・りょうけい)の屋敷に滞在したそうです。
ネット資料によれば、ザビエルが堺に入ったのが1551年1月上旬、その間に11日間だけ京都へ行き(天皇、足利将軍への拝謁を願うも失敗)、戻って2月上旬には堺を離れたことになっています。
ということは、堺に滞在したのは長くても1ヵ月くらいでしょうか。
ヨーロッパの西の果てに位置するポルトガルとアジアの東の果てに位置する日本との出会いをテーマとしてポルトガルの彫刻家ジョルジ・ヴィエイラが作成したもので、昭和45年(1970年)の日本万国博覧会のポルトガル館に出展されたもの。
博覧会終了後にポルトガルから堺市に謹呈された。
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