壱岐一泊目は郷ノ浦に宿泊、いつもの調子で早朝散策に。
今日の泊りは壱岐ステラコート太安閣壱岐最大のリゾートホテル。
旧郷ノ浦町は2004年3月1日に勝本町、芦辺町、石田町と合併し壱岐市となった。
壱岐の埋蔵金伝説
郷ノ浦の道路脇に賑やかに赤い幟が立っている。
地元ではお宝地蔵として親しまれている「伊藤小左衛門地蔵」。
江戸時代の初め、博多の御用商人だった伊藤小左衛門は、一方で抜荷(密貿易)で得た財宝を壱岐のある場所に隠し埋めたという。
ところが1667年(寛文7)11月に抜荷事件が発覚。
長崎奉行の裁きを受け処刑されてしまう。
以来埋蔵金は闇の中。
一説には地蔵の視線の先に埋蔵金があるとかないとか。
ここにお参りするとお金持ちになれるらしい。
江戸時代に壱岐が平戸藩領だった当時から港湾として利用されていたが、元来の地形は遠浅で大型船舶の寄港は困難であった。
郷ノ浦町の前身である武生水町が1925年(大正14年)に町制施行した後、港湾修築を進め、順次機能を強化してきた。
現在は壱岐唯一の重要港湾として旅客・貨物の輸送に大きな役割を果たしている。
水は澄んできれいだ。
フェリーきずな
博多港(博多埠頭) – 芦辺港・郷ノ浦港(壱岐) – 厳原港(対馬)、フェリーちくしと2隻で運航する。
通常ダイヤでは、それぞれ対馬行(壱岐経由)と壱岐行を1往復ずつ運航するが、本船は芦辺港を発着する便に配船されている。
百合若は、日本へ押し寄せてきたムグリ(蒙古)の大軍討伐 を命じられる。(海の向こう(ケイマン国と呼ばれる)で反乱を起こした鬼を征伐するとも)
ムグリを追い払った百合若は、大陸へ渡り、高麗でムグリの大軍を打ち破る。
ムグリとの戦闘は、百合若の勝利に終わる。
壱岐島ではイチジョウという巫女がユリという曲げ物に弓をのせて二本の竹で叩きながら、この百合若大臣説話を謡う風習がある。
その中では「木の葉がくれ」という小鬼の助勢で鬼退治を果たした事になっているものもある。
郷土玩具「鬼凧」の絵のマンホール。
昔々、壱岐は、“鬼”がたくさん住んでいた鬼ヶ島だったそうな。
鬼は、島を我が物顔で荒らしまくり、島に住む人を苦しめていたらしい。
その鬼の悪行を見かねた豊後国(=ぶんごこく 現大分県)の若武者百合若大臣(ゆりわかだいじん)が壱岐に鬼退治にやってきた。
百合若大臣は、壱岐に着くやいなや、次々と鬼に切りかかり、鬼をやっつけていった。
最後に残った鬼の大将である「悪毒王(あくどくおう)」と相対した。
悪毒王との激戦の末、百合若大臣は刀を振り下ろし、悪毒王の首を斬り落とした。
斬り落とされた鬼の首は空中に舞い上がり、百合若大臣の兜(かぶと)に噛み付いたがそのまま、死んでしまった。
その勇士の姿を描いたのが“鬼凧(おんだこ)”です。
鬼凧には、悪毒王が百合若大臣の兜にかみついた絵が描かれていますが、あんなに強かった悪毒王が殺されたことを思い出し、おじけづいて降りてこないといいます。
現地の「塞神社由来」によると、「神代の昔、天岩戸の裸踊りで知られる女神天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、後に異形の男神猿田毘(さるたび)古神と結ばれ、猿女君(さるめのきみ)として以来一対の神となった。
見事!!
明治初期までは壱岐の島に上陸した男達は男根を女神に見せないと怪我をするといってこの塞神に一物の御照覧を願った」という。
妖艶な女神天宇受売命。
これはちとやり過ぎかな。
神前にはちょっとブログでは見せずらいものが沢山陳列されている。
ホテルの裏は遊歩道になっており散策を楽しむことができる。
ホテルの皆さんのお見送りで対馬へ旅立つ。
ホテルで書いていただいた「旅の思い出帳」
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