今井町 上田家住宅

奈良県

上田家は、今西家、尾崎家と共に惣年寄を勤めた家で、江戸時代初期には酒造業も営んでおり、有力商家と共に「今井札」を発行するほど優れた経済力を持っていた。

大工町筋の南側に位置し、西面にも道があって角地に建っています。

入母屋造、本瓦葺で、2階の軒は低く、内部は北側に土間、南側は整形六間取りとなっている。

今井町での上層町家が発展していたことを示す好例とみられる。

屋号を「壺屋」といい、先祖は、葛下郡片岡城主・片岡新助藤原春利で片岡城落城後、上田新七郎之長が1571年(元亀2年)当地に移住した。

1744年(延享元年)の祈祷札がありこの頃の建築とみられる。

1679年(延宝7年)より今西家・尾崎家と並び惣年寄を務めていた。
当家には、惣年寄の旗が残っている。

旗の右肩に「惣年寄」の文字が確認できる。

今井町はもともと興福寺領であったが、永禄年間に一向宗の布教拠点として顕如上人から寺号を得て今井兵部と今西與次兵衛によって「称念寺」を中心に寺内町を形成した。

その後、環濠城塞都市化して織田信長軍と闘ったが、堺の豪商津田宗及の斡旋で武装放棄した。

信長から「万事大坂同然」とし特権を許されて商工業を盛んにし自治都市として発展し「今井千軒」・「海の堺、陸の今井」と言われるまでになる。

元和6年(1620年)8月には徳川家康の外孫である松平下総守忠明が12万石で大和郡山城に入り、元和7年(1621年)5月に今井を巡見し、町政の体制を整えた。

つまり、「惣年寄」を置き、行政権と司法権を与え、自治的特権を与えられたのである。

なお、町政の役職については、「惣年寄窺書」(今西家文書)に町方の治安・訴訟・懲罰や非常時の処置や代官交代の規定などが詳しく条文化されている。

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上田家住宅へのアクセス、行き方歩き方

奈良県橿原市今井町4丁目3-25

近鉄八木西口駅から徒歩で5分