都市住宅の始まりを伝える江戸初期の町家 豊田家住宅

伝統的な都市住宅の先駆けと評価される豪商の住まい。江戸初期に建てられた塗り屋造りの町家は、農家の名残も見せつつ、町家らしい特徴も現れ、力を持ち始めた町衆の心意気が伝わってきます。

その昔,この町の有力な材木商人であったことを物語る、2階正面両端の円に木の字の紋、白と大和格子がひときわ印象的である。

1階はごく普通の連子格子だが、2階以上は漆喰で塗り回した「塗り屋造り」、延焼防止の効果を持つ。

屋号を「紙八」といい、江戸末期から明治初年にこの家に移り住んだ。

元々は材木商で金融業を営む豪商牧村家の所有で「西の木屋」と呼ばれた。

福井藩藩主松平春嶽に貸し付けを行い藩の蔵元を務め、高取藩に融資し重臣の待遇まで受けていた。

しかし、明治維新後の廃藩置県によって大名貸の貸付金が凍結し、債権が放棄され今井町を離れざるを得なかった。

なお、大阪府堺市の大仙公園にある今井町出身の今井宗久ゆかりの茶室「黄梅庵」は、もと牧村家所有の茶室を電力王で小田原三茶人の一人である松永安左エ門が買受け、小田原市に移築したものを1978年(昭和53年)に相続人の松永安太郎が堺市に寄贈し、堺市制90年記念事業の一環として1980年(昭和55年)10月、大仙公園内に移築された。

この茶室は秀吉の吉野山花見に設けられ「宗久茶屋」と称され、後に松永安左エ門が今井宗久の菩提寺大徳寺黄梅院 (京都市)にちなんで「黄梅庵」と名付けた。

住宅は1662年(寛文2年)の建築で今井町では、今西家に次いで古い。

内部は6間取りで帖台構え,主屋西側には今井宗久好みの茶室があるなど今井町における上層町家のすぐれた遺構である。

この時代の民家が京都でも江戸でも板葺、草葺が多かったことを考えると破格の豪壮さといえます。

建物の内部も太い柱や高い梁など、町家として最高級の仕上がりとなっています。

間取りは、広い土間に接して3室が並び、その奥にまた3室が並行する6間取り。
当時の町家では一般的な間取りです。

屋敷は広い土間からもわかるように、農家の造りが見られますが、天井裏の小屋組や差し鴨居など町家の特徴がすでに現れているところから、町家の先駆け的な家であることがわかります。

農家から町家と変わった日本の伝統的な住まいの様式が随所に現れており、今の住まいの源流を見る思いがします。

接客の場所とし使用された「東なかのま」(8畳)。奥の「西なかのま」との境は、敷居をまたいで入る帳台構えとなっている。

右奥に仏間が見えている。

豊田家は、屋号を「紙八」といい、「紙半」から分家し、この家に住むようになった。

向かいは豊田本家。

豊田本家の紙半とは 店の屋号で 実際は 綿、木綿、肥料を扱い、両替商、大名貸もしていた。

江戸時代中期から後期にかけて 今井町在住の豊田家の先祖、五代・六代目紙屋半三郎は 肥料販売、大和綿を取扱い 財を成した。 

蓄財した資産で 書画、骨董、古美術の蒐集した。

文化年間の終わりにこれらの産品は 競争力を失い、油商に転じたが かっての栄光は 取り戻せなかった。 

七代目は 商人というよりは 文化人であり 華道・茶道・三味線に関心が深く、紙半豊田家の隆盛は 終わりをつけた。

しかし 代々受け継いだ古美術が残っており、 それらを広く一般に公開するため紙半豊田記念博物館を開設した。

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豊田家住宅へのアクセス、行き方歩き方

奈良県橿原市今井町3-8-12
0744-25-0418

近鉄八木西口駅から徒歩で7分

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