花の生涯 たか女終焉の寺 金福寺

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船橋聖一の花の生涯で有名なのが詩仙堂近くにある金福寺。
この寺は864年の創建だが圓光寺の鉄舟和尚が荒廃していたのを再興。

庭園は皐月の築山と白砂の簡素な枯山水。
3段の生垣ごしには素朴な趣の芭蕉庵の萱葺き屋根が見える。
3月は紅梅とあせびの花、11月はさざんかと特に紅葉が美しい。
芭蕉庵からは洛中が一望できる。

佛日山金福寺の碑のある石段を上がったところが入り口。

受付に人はいない、板を叩けと書いてあるので仰せの通り板を叩くと奥のほうから初老の女性がゆっくり現れた。

参道を進み芭蕉庵と書かれた扁額の山門をくぐる。
元禄の昔、芭蕉は山城の東西を吟行したおり草庵で自適していた当寺の 住職・鉄舟和尚を尋ね禅や風雅の道に語り合い親交を深めた。

それまで無名であった庵を芭蕉庵と名付けその高風を偲んでいた。
親しかった松尾芭蕉が草庵を訪れたのでそれを芭蕉庵と呼んだ。

前面に小さな庭園をあしらった本堂、この中に芭蕉、たか女の関連遺産が展示されている。

村山たか女(1809-1876)は昭和38年のNHK大河ドラマ「花の生涯」では淡島千景が演じた。
以後、村山たか女は美女と相場が決まっており、舞台でも岡田茉莉子、水谷良重、佐久間良子が演じている。

たか女は徳川政権末期の大老、井伊直弼(いい・なおすけ)の懐刀である長野主膳(ながの・しゅぜん)の愛妾で、同時に井伊とも情を通じていた。

金福寺のたか女の遺品の中に、直弼の和歌の色紙があった。
直弼は、不遇時代に睡眠時間を削ってまで文武両道の修練に励み、和歌もよくしたといわれます。

柴の戸の
しばしと云いてもろともに
いざ語らはん埋火のもと

井伊直弼

直弼は、不遇時代の自分の住家を埋木舎(うもれぎのや)と呼んでいたということです。
たか女は34歳のときこの色紙を直弼からもらい、一生大事にしていたそうです。

長野主膳に宛てたたか女の密書が展示されている。
直弼が大老となり、江戸に移った後二人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した。
日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。

たか女生き晒しの図。
1860年(安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年(文久2年)に尊王攘夷派の武士に捕らえられ三条河原に3日3晩晒されたが、女性ということで殺害を免れた。

しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに岡田以蔵らによって斬殺され、首を晒されている。
生き晒しとは、その人の行った悪行を書いた立て札の柱にくくりつけられ、三日三晩、野ざらしにされるもので、その間、そこに通りかかった人は、誰でも石などを投げつけてもかまわない、というものだそうです。

三日三晩の間、この環境に耐えて放免されることはまずあり得ず、ほとんどがその途中で息絶えるそうです。

たか女は凍てつく4日目の朝、まだ息があり、助けられました。
それは、くの一として鍛えあげられた強靭な体力と精神力もさることながら、その容姿の美しさから、通りすがりの人々が、投石する事をためらわれたから、とも伝えられています。

粗末な着衣で縛られながらも、燦然とオーラを放っていたのではないでしょうか?
どれほど妖艶な人であったのか、頭の中で想像は膨らむばかり。
結局のところ、美人は得をするのか・・・・

寺にはたか女の筆跡がたくさん残されている。
金福寺は、幕末という激動の時代を駆け抜ける半生を送ったたか女が、心静かに終焉を迎えるに相応しい地だったのだろう。
今でも相変わらず観光客もまばらな、禅寺らしい侘びた雰囲気の上品な寺である。

名を妙壽と改めて、その後、井伊直弼や長野主善、息子の帯刀らの菩提を弔い、14年間ここで余生を送り、明治9年に67才の生涯を閉じる。
法名「清光素省禅」

その墓は、圓光寺にあるが、たか女に所縁の金福寺には、その菩提を弔うために、本墓の土を埋め、たか女の筆跡を刻んだ参り墓が建っている。
圓光寺の記事は新緑が眩しい 瑞巌山圓光寺にあります。

庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。
元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになったが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776年(安永5年)再興された。

うき我を さびしがらせよ かんこ鳥   芭蕉
閑古鳥よ、気がふさいでいるわたくしを、さびしがらせておくれ。しばらくは、そのさびしさを心の主として過ごすから。

芭蕉の碑
蕪村や道立が建てたもので芭蕉の生涯を称えた文が刻してある。

蕪村は碑の建立時に我も死して日に辺(ほとり)せむ枯尾花と詠み残していたので望み通り後丘の墓に納骨された。

中川四明句碑「
中川四明
嘉永2年(1849)~大正6年(1917)
京都の人,正岡子規・大谷句仏師の先輩に当たり,明治29年京都と大阪の俳人初集団たる京都満月会を興した。」

墓地には白髪苔が見られる
葉は絹のような光沢があり密で10mm前後。湿ると緑が濃く、乾燥すると白みを増す。
ここからシラガゴケの名が付く。
葉先は細く屈曲する。
胞子体はまれ。

青木 月斗(あおき げっと、1879年(明治12年)11月20日 – 1949年(昭和24年)3月19日)は、正岡子規門の俳人。

蕪村・寺村百池句碑
花守は野守に劣る今日の月 蕪村
西と見て日は入りにけり春の海 百池

ぜひクリック拡大してみてください。一番高い山が愛宕山です。
そして、与謝蕪村のお墓の前のあたりから見る夕陽の眺望が素晴らしいということなので是非。

たか女は美貌と頭脳、行動力を併せ持ち、「妖婦」と蔑まれながらも、直弼と主膳という二人の男の為に奔走する。
生年: 文化6? (1809)
没年: 明治9 (1876)
1809年(文化6年)、近江国犬上郡多賀町で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。

別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。
母は同社般若院住職の妹。
同社寺侍村山氏の養女となり,伯父に育てられる。

美貌と才気の持ち主で,京都に出て芸妓となり可寿江と称した。
金閣寺住職に請われて隠し妻となり25歳で一子帯刀をもうけたのち,同寺寺侍多田一郎時員の妻となるが2年で離縁。

彦根に帰り,部屋住み時代の井伊直弼の寵を受ける。
やがて直弼の側近,長野主膳(義言)と親しくなり,主膳と共に直弼の政敵を探索した。
文久2(1862)年11月,幕府権威の失墜を狙う尊攘派によって京都三条大橋に生き晒しになるが,助けられて尼となり,名を妙寿と改めて洛北金福寺に入った。

長らく、たかと井伊直弼の具体的な関係は不明であったが、2011年(平成23年)の末、京都市東山区の井伊美術館で、井伊がたかへと宛てた手紙が発見された。
手紙は井伊が20台後半に書かれたものと思われ、藩の反対で、たかと会えなくなった際の、辛い心情が綴られている。


花の生涯

船橋聖一の花の生涯では、村山たかは浮気性な男好きのするいい女と描かれています。


奸婦にあらず

女自身を主人公にした諸田玲子さんの小説「奸婦(かんぷ)にあらず」が日本経済新聞社から刊行されました。
ここでは、間者として、女として、母として生きたたか女が「花の生涯」より、さらにリアルに描かれています。
うちは若君はんのためだけに生きとおすと言って、一途な恋情を若君(井伊直弼)との志に変え、幕末を生き抜いた忍びの女の物語でした。

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金福寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市左京区一乗寺才形町20
電話番号:075-781-2954

叡山電車 一乗寺下車 徒歩約20~30分
市バス 一乗寺下り松町下車 徒歩約5分

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