真田幸村雌伏の地九度山

和歌山県
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真田幸村雌伏の地九度山を訪ねた。
講談本の人気とこの時期のドラマの影響で盛り上がっているが、実態としては生活感の一部も感じられるものはない。

弘法大師は槙尾山の弁財天を厚く信仰なさっており、毎月9度槙尾山にお参りに行っておられたとか。

ところが、あるとき紀ノ川が増水して槙尾山へ行けずにいたとき弁財天が姿を現し、この地に遷して(移して)お参りすれば良いと告げられたそうです。

その弁財天と弘法大師が対面した場所にあるのがこの対面石だそうです。

また、明治期以降では弘法大師とお母様と対面されたところとも言い伝えられている。
月に九度もお母様に会いに高野山から下りてきたり(九度山の名のいわれ)、さらに九度も槙尾山までお参りに行ったりと、弘法大師も忙しかったことでしょう。

合計すると、ひと月に九度と九度、計18回も高野山から降りてきていたのですから、超人と言っても良いですね。

真田の抜け穴、実は真田古墳。

善名称院の約200m東に、昔から地元の人々に「真田の抜け穴」と伝わっていた穴がある。

また、その穴から善名称院までを真田氏の造った抜け穴と長い間信じられてきたが、しかし、昭和28年(1953年)に行われた発掘調査によって、古墳時代後期(4世紀)に造られた横穴式石室を持つ円墳であることが判明した。

真田との関係性は無いが縁の地という事で、真田古墳と名づけられた。

寛保元年(1741年)に大安上人が、真田昌幸の庵跡と伝承のあるこの地に、地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まり。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸・信繁父子は、女人禁制の高野山(蓮華定院)に配流の身となった。

しかし、妻を連れていたために九度山に移され蟄居生活を送ったとあるが、理由には諸説ある。

善名称院には、その庵の址があったと伝わるが、庵は遍照寺の近くにあったという説など、諸説がある。

後世、真田親子の講談が人気となり読まれ、訪れる人も増えて近年は観光化され、別称・真田庵と呼ばれるようになり、資料館なども併設、開館された。

六連銭は仏教でいうところの六道銭のことで、三途の川の渡し賃であります。
決死の覚悟であるという意気込みが伝わるところからこの家紋にしました、という説があります。

六連銭紋。真田家は六文銭を用いる前は雁金(かりがね)の紋でした。
ちなみに、この家紋は真田家だけの家紋ではなく、海野氏や深井氏もこの家紋であります。

雷封じの井 – 信繁が真田屋敷に落ちた雷を井戸に封じ里人を救ったと伝わる。

家康に赦免してもらう日を強く期待していた昌幸であったが、寄る年波と病気から、その望みも消え、慶長16年(1611)についに九度山真田庵で没した。

「公儀御はばかりの仁」として正式の葬儀は行われなかった。
昌幸の一周忌がすむと、上田から昌幸に随行した家臣の大部分は帰国し、信之に帰参してしまう。

多くの家臣がいなくなった九度山真田屋敷はますます淋しくなる。
残った家臣は高梨内記ら2、3人であったと言われている。

真田ミュージアムに記父子三代の像が展示される。

真田庵も関ケ原後100年以上たってからの設営だし諸説あって・・・・ドラマで盛り上がっているが実態はいかがなものか。

松山常次郎記念館、同町出身で大正・昭和戦前期に活動した政治家・松山常次郎に関する展示を行っている。

記念館の建物は松山常次郎の生家で、木造商家建築。
常次郎の親族により雑貨店として利用されていたが、改装を経て2007年5月3日に記念館として開館した。

松山常次郎とその家族にまつわる書簡や写真、遺品などを通して、常次郎の生涯が紹介されている。
常次郎の長女の夫が平山郁夫という関係にあり、平山が義父を生前に描いた肖像画が展示されている。

また、記念館の看板の文字も平山の揮毫になるものである。

旧萱野家は、江戸時代中期に高野山眞蔵院の里坊(不動院)として建てられ、民家(萱野家)として受け継がれてきた。

現在は九度山町指定の有形文化財(建造物)となっており、建物は入母屋造りで庭が有名で高野山が遠望出来る。

堀江六人斬り事件(ほりえろくにんぎりじけん)は1905年(明治38年)6月22日未明、大阪の堀江遊郭の貸座敷「山梅楼」(やまうめろう)の主人・中川萬次郎が発狂の末に一家6人を殺傷した事件。

5人が死亡、1人に重傷を負わせ、自身は自殺を図ったが死に切れず警察へ自首した。

時は日露戦争真っ只中、ついひと月前に日本海海戦で劇的な勝利、国中が戦勝ムードにみなぎる中で起きた事件は大阪中に衝撃を与えた。

なお、この事件で両腕を切断されながらも生存した芸妓・妻吉は紆余曲折のすえに高野山で出家し、名を大石順教と改め、半生を障害者の福祉に捧げた。

その後、大石よね(大石順教)は、話題の事件の被害者として、身障者である自身の姿を見世物として、寄席や地方巡業で生計を立て両親を養う日々が続くことになります。

3年後のそんな巡業中のある日、鳥篭の中のカナリヤを見て心を打たれます・・・・親鳥が雛に口で餌を運んでいる姿・・・鳥は手が無くても、一所懸命生きていることに気付いたのです。

よね(大石順教)は一大決心をし、筆を口にくわえて苦しい練習を行い書画に優れた才能を発揮するまでになります。

また学問を学び、明治四十五年(1912)には日本画家の山口草平と結婚し一男一女の母となりますが、関東大震災に遭遇します。

その後夫とは離婚に至りますが、昭和に入ると、「堀江事件」の犠牲者等の冥福を祈るために仏道生活に入り、そして自身と同じ身体障害者婦女子の収容と教育を始めました。

昭和八年(1933)、出家・得度し名を「順教」と改め、昭和十一年(1936)、勧修寺境内に身体障害者福祉相談所を開設、さらに昭和二十六年(1951)に仏光院を建立。

また、口を使って描く書画では昭和三十年(1955)日展に入選。

その他全国を活動して、昭和三十七年(1962)、日本人として初めて世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれた。

こうして身体障害者の心の母、慈母観音と慕われた大石順教尼は、昭和四十三年(1968)四月、81歳で亡くなりました。

九度山町のマンホールの蓋、中央に九度山町の町章を配置し、町の木である柿をデザインしています。

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