春を迎えた山の辺の道を箸墓から大神神社までのんびりとウオーク。
道端にはツクシが群生、無人販売所でも販売中だった。
ホケノ山古墳は古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳。
副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。
被葬者は不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)。
墳丘上から西に箸墓古墳が見える、大和三山も見えている。
桧原神社目指して緩やかな坂道を上る、竹林と柿の木の林が続く。
この辺りからは金剛、葛城、大和三山が見え隠れして快適な散歩道。
桧原神社は、万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にある。
かってこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた。
そのため境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っている。
大和国中が一望できる絶好の場所に位置し、眼下に箸墓の森が見え、二上山の姿も美しい。
早咲きの桜が咲いています。
この辺りは道幅も広く、木漏れ日の中を歩く。
杉林の中に一筋の光が射し、杉の肌、陽を受けた植物が浮き上がる。
陽を受けたモミジも美しい。
行をする場所なのか滝に打たれた石が幻想的だ。
玄賓庵の前の通り。
のどかな山の辺の道も、ここだけは石畳と石垣になり、少し表情が変わります。
境内でモクレンのつぼみを見つけた。
山の辺の道沿いの大神神社と檜原神社の間にあるお寺『玄賓庵(げんぴあん)』。
ひっそりとした小さなお寺ですが、世阿弥の作とも伝わる謡曲「三輪」の舞台となった、由緒ある古刹です。
大和国三輪山の麓に庵室をかまえている玄賓僧都のもとへ、毎日樒と閼伽の水を持って来る女があります。
一度素姓を尋ねてみようと玄賓が待っていると、やがて女は訪れ、秋の夜寒をしのぐ衣を賜り給えと請います。
玄賓が快く衣を与え、その住居を問うと、女は「我が庵は三輪の山本恋しくは訪い来ませ杉立てる門」の古歌をひき、杉立てる門を目印においでなさいと言い残して姿を消します。
玄賓が女の言葉を頼りに草庵を出て、三輪明神の近くまで来ると、不思議なことに二本の杉に先程女に与えた衣が掛かっており、その裾に一首の歌が書いてあります。
それを読んでいると、杉の木陰から御声がして、女姿の三輪明神が現れます。
そして和歌の徳を讃え、三輪山の杉にまつわる昔話を聞かせ、天照大神の岩戸隠れの神話を物語り、神楽を奏しますが、夜明けと共に消え行きます。
「謡蹟めぐり 三輪 みわ」より引用
親子カエルがかわいい。
カメを模したもの、中々ユニークだ。
久延彦神社(くえひこじんじゃ)までやってきました、ここも早咲き桜が咲いていました。
展望所からは眺望もよく、二上山もきれいです。
ピンクのアセビを発見。
狭井神社は狭井川の畔にある大神神社の摂社で、正式な名前は「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」という。
本社の荒魂をお祭しており、延喜式神名帳に記されている古社。
拝殿の左後ろに、この神社の由来になっている神水の井戸・狭井がある。
ここから湧き出る水は昔から「薬水」と呼ばれていて、この薬水を飲めばいろいろな病気が治るという。
三輪山への登拝口。
本日の目的地大神神社に到着。
記紀には、次の記述がある。
大国主神(大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。
大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。
その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。
その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。
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