伊予国一宮 大山祇神社

全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社。

また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。

源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。

本殿、元亨2年(1322年)の兵火での焼失を受け、室町時代の応永34年(1427年)に再建されたもの。
三間社流造、檜皮葺。国の重要文化財に指定されている。

拝殿、本殿同様に室町時代の応永34年(1427年)の再建による。

慶長7年(1602年)に大修理が実施されている。
素木造で屋根は切妻造檜皮葺。

正面中央に一間の向拝を設ける。
国の重要文化財に指定されている。

薩摩の隼人族が大和朝廷の貢物とした芸能が隼人舞だといわれている。
その祖型は山幸彦が海幸彦に勝利した物語を表現したものとも言われ、隼人族と朝廷との親密な関係があったことが『日本書記』から読み解ける。

現在隼人舞は隼人の鹿児島神宮で伝承されており歌舞伎成立以前の古代芸能として大変貴重な文化遺産である。

像は狩衣(かりぎぬ)の装束に鳥兜(とりかぶと)をかぶり、右手に扇子、左手に鉾を持ち、「隼人舞」を舞う人の姿を表現しており、台座上部から鉾の先までの高さは2.53mある。

近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。

現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝がある。

太平洋戦争の終戦直後の一時期には、旧帝国海軍関係の貴重な資料や教材を戦利品として連合国に没収されることを恐れた海軍兵学校から、厳島神社と合わせて約1万点を「奉納」の名目で預かっていた。

そして後に自衛隊が創設されると、自衛隊に返還がなされた。
また、GHQは刀剣類の異常な多さを問題視し、国宝級を除いて処分を命じたが神社側は密かに土中に秘匿した。

原始林社叢の楠群、国の天然記念物(指定名称は「大山祇神社のクスノキ群」)。

1951年(昭和26年)6月9日指定。
境内には多くのクスの古木が残って原生林の名残を留めている。
うち38本が指定対象となっている。

能因法師雨乞いの樟(枯死)幹周17m(現在は10m以下)。

神池近くにある。伝承樹齢3,000年。
かつて日本最古の楠と言われた。

18世紀に枯死し腐朽がかなり進行しているが、1990年頃の調査でも胸高幹周10mの大木である。

名称は、1066年の大干ばつの際、能因法師がこの木に幣帛を掛け雨乞いを行ったことに由来する。

このことは『金葉和歌集』の大治2年(1127年)に詠まれている。

乎千命(おちのみこと)御手植の楠、幹周11.1m、根周り20m、樹高約15.6m。

神社境内のほぼ中央にある。
伝承樹齢2600年。

兵火や洪水・落雷により樹勢は衰えているが下枝は葉をつけている。
現在では息を止めて3周すると願い事が叶う、一緒に写真を撮ると長生きできるなどと信仰がある。

小千命の手植えとの伝承があり、名称はこれに由来する。
根本は柵で保護されているがその周りは踏み固められており、やや枯れ枝が目立つ。

河野通有兜掛の楠(枯死)、幹周14m(現在は3m以下)。

弘安4年(1281年)元寇出兵時、河野通有が大山祗神社に参籠祈願した際に兜を掛けたとされる。

1322年の兵火で大被害を受け枯れているが、現在も幹の一部が社殿の脇に横たえている。

大三島海事博物館 (葉山丸記念館)

昭和天皇の採集船である葉山丸を中心に、瀬戸内の動植物や全国の鉱山から奉納された鉱石を展示。

マンホールには町の名産「みかん」と、町の花である「みかんの花」が描かれています。

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大山祇神社へのアクセス、行き方歩き方

今治市大三島町宮浦3327
TEL:0897-82-0032

今治駅前約60分 → 大山祇神社前下車 → 徒歩・約1分
大三島IC → 約10分