豊前街道 南関御茶屋跡

九州

南関は、古代には官道が通り、大水駅が置かれ、国境警備のための関が設けられたとされる地であり、古来、交通の要衝として発展した。
関所はその後も機能し、現在の地名に通じる「みなみのせき」が定着したといわれている。

道路は、近世においても豊前街道として利用され、江戸時代には参勤交代の道としてもおおいに利用された。

参勤交代に際しては肥後国内における最後の休憩地、宿泊地であり、そのため、藩主はじめ藩士のための御茶屋が設置された。

嘉永5年(1852)頃、肥後細川家の藩主が参勤交代や領内巡視の際に休憩・宿泊した施設で、御茶屋として県内で唯一残った史跡として国に指定されている。

当施設は地元ボランティアで運営され、お唄の勉強会やイベント(観月会等)開催もある。

明治時代以降は、民家や旅館などとして利用されていたといわれる。
1932年(昭和7年)には北原白秋の歓迎会が行われている。

白秋が愛した「第二の故郷」、南関町、南関(なんかん)町の関外目にある石井家は、北原白秋の母の実家で白秋の生家として知られています。

関外目とは、関村(現在の南関町の中心で役場などがある関町)に対して、そこから分かれた新しい村という意味です

石井家は幕末に酒造業を営んでいたので、筑後地方の同業者とはいろいろと縁があり、その中の一軒である柳川城下の北原家に、白秋の母「しけ」が嫁ぎました。

母は明治18年(1885)関外目の石井家に里帰りして長男の白秋を出産し、石井家の祖父の名から一字をもらって隆吉(りゅうきち)と名付けられました。

「はっ、お抹茶が出るんですか~?」

「入館料200円でお抹茶がいただけるなんて!」

お抹茶が置かれたのは御居間(おいんま)、お殿様がくつろいでいた部屋。

障子をあけると美しい『南関富士』

大津山は、標高256メートルの小高い山で、容姿が富士山に似ているところから『南関富士』と呼ばれ、町民から親しまれている。

釘隠しは細川家の九曜の紋。

明治10年勃発の西南の役、中町にある正勝寺では西南の役で有栖川宮熾仁親王が本営をおかれ、出兵を指揮されました。

二層の山門や居室など、当時のまま残されています。

南の関うから館は純アルカリ性の天然温泉、今日のお昼はここで頂きました。

散策後は温泉につかり英気を養いました。

玉名郡南関町(なんかんまち)のマンホール、町の花つつじのデザイン。

中央のマークの中に「なんかん」と書かれています。

マークは町章ではなく、 役場の担当者によると、「南関町は関所の町ですので、 冠木門をデフォルメしたデザインになっております。」とのことです。

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南関御茶屋跡へのアクセス、行き方歩き方

熊本県玉名郡南関町関町1141-2
0968‐53‐0859

産交バス/南関バスセンターより徒歩5分
西鉄バス/南関より徒歩10分