河内源氏の里散策

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河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。
一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。

叡福寺を少し下った辺りに油掛け地蔵がある。

お地蔵さまの中で特にユニークなのが、ご紹介する“油掛地蔵”。

その名が示すとおり、油を掛けて願掛けや供養をするお地蔵さまです。
油を掛ける意味については、さまざまな「謂われ」が伝承されていますが、詳しいことはよくわかっていません。

しかし、つぎのような説があります。

仏前に水を供える閼伽(あか)供養が、水を掛ける、さらに油を掛けるという行為に発展し、これと油商人の商売繁盛の願いが結びついたというものです。

源義家の墓。

源義家は源頼義の長男として、この地で生まれた。石清水八幡宮で元服したので「八幡太郎義家」と呼ばれた。

前九年の役には父と共に奥州へ遠征し、その後も後三年の役にも武功を揚げた。武将としては初めて殿上人となったが、61才で京都の邸宅で死去し、祖父頼信と父頼義が眠るこの地に葬られた。

頼朝、頼家、実朝の「鎌倉三代」と呼ぶのと同様に頼信・頼義・義家を「河内源氏三代」ともいう。

付近は歴代住職の墓が並ぶ。

壺井八幡宮
義家の死後、その子供の義時が源氏の氏神として建立し、八幡神と共に河内源氏の祖である頼信、頼義、義家の三代を祭った。

その後衰えたが、源氏の末裔を称する徳川氏によって再建された。

権現堂(徳川家康を祭る)の前にある1対の燈籠は柳沢吉保の寄進によるものである。

その後老朽化が進んだが、前宮司であった高木保生氏の努力によって、平成2年から6年にかけて大修理が行われた。

竹之内街道へ戻って左へ、村の中を道なりに歩いて行くと飛鳥川に沿った道に合流する辺りの左側に古い石柱があり、その横に羽曳野市の説明板がある。

あすか河もみち葉なかる葛城の山のあき風吹そしぬらし

これは万葉歌を本歌取りした新古今和歌集の歌である。

この歌の元歌は
あすか河もみち葉なかる葛城の山の木の葉は今し散るらし
である。

揮毫したのは駒ヶ谷の金剛輪寺(杜本神社の境内にあった神宮寺)の住職であった阿闍梨覚峰(あじゃり かくほう)。

覚峰は村おこしに奔走した人で、河内と大和を結ぶ竹内街道を行く旅人を呼び込む名所作りを思いついたのあろう。

しばらく飛鳥川に沿って歩くと「石川合流点から1.4K」という表示板がある。

飛鳥」といえば「大和の飛鳥」を指すが、河内にも「あすか」という地名がある。
この標識の少し上流に「羽曳野市飛鳥」がある。

以前は「安宿」と書いて「あすか」と読んでいたが、最近は「飛鳥」という漢字を使っている。

紛らわしいので、河内の飛鳥を「近つ飛鳥」と呼んでいる。

大和の飛鳥川は明日香村の南端にある芋峠から流れ出しているのに対して、この「河内飛鳥川」は太子町の東南、葛城山の麓から流れ出している。

河内ワインの試飲で本日の締めくくり。

生駒・葛城山の麓はブドウ造りに適しており、昭和初期には日本一の生産地として地域一体でさかんに栽培が行われていた。
しかし、昭和9年に西日本一体を襲った室戸台風の影響により、収穫期を迎えていたブドウに被害がおよぶ。

困り果てた生産者は、落ちてしまったブドウをなんとかすべく農業振興策としてワイン生産に着手。
自然がもたらした悲劇が、73年経った現在「河内ワイン」の運命として受け継がれ、話題の国内ワイナリーの一つとして人気を集めている。

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