日本最南端の天守台を持つ 佐土原城

佐土原城(さどわらじょう)は、14世紀半ばごろに伊東氏の一族田島休助によって田島城(たじまじょう)として建てられた。

江戸時代は佐土原藩島津氏の居城となった。

現在は埋められてしまっているが、鶴松館の前面部には水堀が掘られていた。

この堀によって南側の城山と、北側の弁天山との間の谷戸部を締め切り、これによって区画された谷戸内部を居館区として使用していたようである。

近世段階では、山上の城はほとんど使用されていなかったようだ。

鶴松館の裏側から佐土原城への登城道を進んで行く。
傾斜は緩やかだが、切り通しの道が長く続いている。

南の城へ入る虎口。

南の城跡。

江戸時代に書かれたと思われる佐土原城を描いた屏風には二の丸とおぼしき場所に立派な鯱を持つ三重の櫓が見られる。

「南九州には天守のある城は無い」「天守は本丸にある」というのが常識と思われていたため、この屏風の信憑性が疑われていたが、1995年(平成9年)の発掘で天守台跡と金箔瓦の破片が見つかり、佐土原城には天守に当たる建物があったことが確実となった。

1427年頃、田島氏は日向国に勢力を伸ばしてきた伊東氏から城を追われ、伊東祐賀が入城。佐土原氏を名乗る(このころから通称として佐土原城とよばれだした)。

さらに1480年に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配。
伊東四十八城の一つに位置づけられた。

1536年に焼失。(1542年から1543年)に、田島城(佐土原城)の跡地に新しく鶴松城(かくしょうじょう)として建てられた(通称は佐土原城)。

その後、伊東氏は島津義久に敗れ豊後に逃れ、義久の実弟島津家久が城主として入った(高城の合戦)。

1587年に豊臣秀吉が九州に侵攻、島津義久は秀吉の傘下に入る。その直後に家久は急死(死因については暗殺などの諸説ある)、息子豊久が城主となる。

1600年の関ヶ原の戦いで島津家は西軍に参加。豊久は戦死し、徳川家康の家臣、庄田三太夫が一時的に預かるという形になったが、その後1603年に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領した。

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佐土原城へのアクセス、行き方歩き方

宮崎県宮崎市佐土原町上田島8202-1
0985-74-1518

JR佐土原駅から車で約15分
宮交シティから西都行きバス、佐土原小前下車、徒歩5分

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