三階櫓がそびえた名城 延岡城

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延岡城は江戸時代に高橋元種によって築かれた平山城。
築城当初は縣城と呼ばれたが、後に延岡城へ改称されている。

もともと、縣は古代以降土持氏の支配する所であり、この城も高橋元種の築城以前に存在した土持氏の城館を改修増築した可能性も考えられている。

今回九州20名城シリーズの最終回、八代城、佐敷城、佐土原城、延岡城、都於郡城を巡る。

最終就航まで残り4日というフェリー北九州に乗船、本来はすでに新造船北九州Ⅱが就航しているはずだが工期の遅れで一番のおんぼろ船に乗る羽目に・・・・・

明石海峡大橋の通過は船内のレストランより。

千人殺し全面下の枡形虎口に復元された北大手門より入城。
現在はこのすぐ脇に旧藩主内藤家の墓所がある。

ある石をはずすと一気に全壊し、一度に千人の敵兵を殺すことができるという石垣がそびえる、「千人殺し」と呼ばれている。

千人殺しの石垣の先端部。
なぜか一番下がコンクリートに替えられている。

ってことは、下の石垣を取り換えたことがあったということか。
その時によく上の石垣が崩落しなかったものだ。

千人殺しの石垣を下から見上げてみた。
中央部が膨らんで張り出している。

これは千人殺しの仕掛けゆえの構造なのか。
それとも崩れかけているのか。

気をつけないと、下の石をはずさなくても、崩落してしまいそうに見えてしまう。

二階櫓跡に進む。

本丸、天守台。

天守台跡地にある鐘付堂
鐘は、明治11年に今山八幡宮の鐘を、城山に移し鐘楼を建てた。
現在の鐘は二代目となる。

現在も1日に6回、市民に時刻を告げている。

ちょうど鐘を鳴らす時間に通りかかった、市の職員がラジオの時報を合図に金を鳴らすと思わず拍手が。

天守台から南方の愛宕山公園の方向を見たところ。
すぐ前は海。

中央に見えるのが大瀬川。

城は、本城と西の丸の2郭から構成され、五ヶ瀬川と大瀬川を天然の外堀とし、城山の周辺に内堀と石垣を築く。

本城は、本丸、二の丸、三の丸の3区に構成されている。

天守台下の縁部に三階櫓跡の石垣が残っている。

その奥に空の先駆者後藤 勇吉の碑。

後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年(明治29年)11月12日 – 1928年(昭和3年)2月29日)は、日本の航空黎明期の民間パイロット。

一等操縦士・一等飛行士免許取得、航空機による旅客輸送、日本一周飛行などにおいて日本初を成し遂げた。

太平洋横断無着陸飛行計画の訓練中に墜落死した。

「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬ をさなかりし日聞きしごとくに」と若山牧水が詠んだ歌碑。

若山牧水は、明治18年8月24日、宮崎県 東郷町 坪谷に生まれた。 

村の尋常小学校を終えると、10里ほど離れた延岡市の高等小学校に入り、新設された県立 延岡中学校を卒業して、早稲田大学 英文科に進む。

延岡での8年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、将来天下に名を成す歌人としての素養を培(つちか)われた。
 
この歌は、昭和2年7月24日、台雲寺で詠(よ)んだもので、昭和10年春、全国3番目の牧水歌碑として建てらした。
 
毎年、春の日に歌碑まつりが行われる。

延岡市のマンホール、市章の両脇に宮崎県伝統工芸品である江戸時代から続く郷土玩具の「のぼり猿」が描かれている。

【延岡郷土玩具 のぼり猿由来について】

昔の延岡は内藤藩の城下町で、豊かな自然の恵みを受けて暮らしていた。
文豪夏目漱石の「坊ちゃん」に「延岡は猿と人間が半々に住んでいるところ」というくだりがあるが、山野は野猿の天国であったかもしれない

田畑の作物を喰い荒すに困り果てた人々は猿を退治した。
そのためか豊作となったが、一方では子供の疫病がはやった。

猿のたたりではないかというので「のぼり猿」を作り庭先に立てて供養したところ疫病はおさまった。

人々は喜び農作と健康を祝った。
その姿は縁起をかつぎ、めでたいように三番雙に仕立てた。

烏帽子を被り鼓を背に負い御幣をさし、赤のまわしをしめ菖蒲の織にささげられている。
風を受けると竿をつたって登るので子供の立身出世・無病息災・五穀豊穣とお家安泰を願って節句に飾るようになった。

それ以来武士の妻達がつくり続けたといわれる伝統を持つ玩具である。

五月の風に吹かれ庭先で躍りながら張り子の猿が上下する格好は愛嬌があり郷土玩具の一品として高く評価されている
(もらったパンフレットより)

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延岡城へのアクセス、行き方歩き方

JR日豊本線「延岡」駅から徒歩20分。
又は、バス10分。市役所前下車。

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