合掌造りの名は屋根の木組みが、掌(たなごころ)(手の平)を合わせた形になっているところからきています。
移設元:旧岐阜県大野郡白川村大牧
昭和31年(1956)に飛騨白川村(ひだしらかわむら)より移築されたこの民家は「合掌造り(がっしょうづくり)」と呼ばれ、屋根は茅葺き(かやぶき)で、母屋の構造は平入りの3階建です。
建築年代は不明ですが、今から200年位前のものと考えられます。
妻側に接して、ヘンチャ(便所)とミンジャ(水屋)が建てられています。
1階は家族の生活の場で、2階・3階は通気が良く主に養蚕に使用していました。
アマは飛騨の里(ひだのさと)にあるいろりの上にある木のわくです。
これは天じょうからつり下げられており、ここに様々な物をかけて乾燥させました。魚などをつり下げて燻製なども作りました。
壁は土壁を一切用いず、全て板壁造りですが、その板壁も横板を柱の間に落したもので、現在では神社形式にしか見られない古いつくりのものです。
2階・3階は通気が良く主に養蚕に使われていた。
ただ養蚕のために使用されるため簡素な造りです、筋交も観光用に移設された時につけられたもの。
床のほかには釘やカスガイを用いず、縄とネソと呼ぶ木の枝で縛りつけています。
つまり、屋根の重力が1点に集中するため、かえって安定性があります。
こうした構造から、合掌造りのような高層建築でも風雪に強く、その合理性は現在の力学の知識でも裏付づけられます。
白川の特殊な風習
<ヨメトリとツマドイ>
白川郷の大家族制下にあって「女は家に居つくもの」という観念が普通だった。
女たちは一生を生家で過ごし、他家の男と馴染んで子をもうけることが当たり前の生き方であった。
また、女は家の大切な労働力であったので、他家の長男(アニ)の嫁になっても、嫁入りすることを家長(トト)がすぐには許さなかった。
長男となじんで子供が生まれても別居のままで、やっと嫁入りしたとき子供が一人や二人ついてくるのは珍しくなかった。
家長や長男の元へ嫁入りする娘以外は「ツマドイ婚」である。
これは、女の家に男が通う習俗で、生まれた子供は女の家で育てられた。
別居婚だから夫婦の共同財産を持たない。
ツマドイの関係は周囲も認めた公然のもので、女のチョウダ(寝室)に通うためだけの出入り口(床板を押し上げて床下から這い上がった)があった。
<子育て>
カカ(家長の妻)も傍系の女たちもよく子供を生んだ。 子供は将来の労働力として期待されたので、いつでも赤ん坊を入れたツブラ(這い出せない寝カゴのようなもの)が七つ八つは並んでいた。
田畑から帰って来た女は、誰の子でも泣いている子から乳を飲ませたという。
公然出産するカカや嫁の子と、傍系の女が産む子に区別はなく、どの子も家の子として分け隔てなく育てた。
このような白川郷の大家族制は明治時代までつづいた。
関連記事