秋晴れの大阪城を散策2

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今日は先日とは打って変わり時折小雨のぱらつく鬱陶しい空模様となってしまった。
先日回りきれなかった所を散策した。

石垣の抜け穴?
大阪城には真田の抜け穴等の伝説がありますが、六番櫓西側、南面する石垣の中腹に、ぽっかりと口を開けた謎の抜け穴があります。

石ひとつ分くらいの穴は、石垣の上から15メートルほど下方、水面から8メートルほど上方に位置し、人間が出入りできるようなものではありません。

この穴は1959年(昭和34)の大阪城総合学術調査で発見されたもので、長きにわたってその存在すら誰にも知られずにきた謎の穴です。

一説によると、明治以降に陸軍がつくったといわれていますが、どのような意味があるのかは全くわかっていません。
現在では、2メートルほど進むと崩壊していてそれ以上奥には進めなくなっているそうです。

一番櫓(いちばんやぐら)は南外堀に面して二の丸南面隅櫓7棟のうち一番東に位置しているのでこの名がある。
玉造門を側面から防御する役目をもつ。

もとは乾櫓と同様の総二階造りであったらしいが、寛文8年(1668)に大改造され現在の姿となった。
昭和40年(1965)解体された。

この玉造口は、大阪城の東南の出入り口に当たります。
かつては、他の口と同じように、門の内側に石垣造りの枡形が造られ、上に多聞櫓が建っていました。

多聞櫓は、慶応4年(明治元年・1868)の維新動乱に伴う大火により焼失した。

その後大阪城を管轄下に置いた陸軍の手により、枡形の石垣や焼け残った玉造門などが撤去されたため、現在では門の両脇の石組みしか残っていません。

ちなみに、「玉造」の地名は、古墳時代、勾玉管玉など装飾用の石を造った技術者集団「玉造部(たまつくりべ)」が、この南方に住んでいた事に由来するとされています。

大坂城代京橋口定番屋敷跡
大坂城代(おおさかじょうだい)は、江戸時代の役職の一つ。

将軍直属で有力な譜代大名が任じられた。
大坂城を預かり、西国大名の監視および城の警護等にあたった。

大坂における幕府役職の首席であったが、大坂町奉行など他の役人は、制度上大坂城代ではなく老中や若年寄の管轄であった。

大坂城代玉造口定番屋敷跡
城代補佐として2つの定番を配下に持ち、京橋口定番と玉造口定番は各々の虎口警護にあたり、城代は正面である大手口(追手口)を担当した。

城の周囲は南が城代とその家中、北西が京橋口定番とその家中・与力・同心、南東が玉造口定番とその家中・与力・同心の屋敷地となっており、概ね棲み分けられていた。

江戸時代中期以降、大坂城代・京都所司代を経て老中に就任する例も多い。
関東地方など遠方に領地を持つ大名が大坂城代に就任すると、所領のうち1万~2万石程度を大坂近郊で割り当て直された。

退任時には元の所領に戻された(京都所司代への転任などで、引き続き大坂近郊の領地を領有する場合もある)。
そのため、播磨国(兵庫県)南部では頻繁に領主の入れ替わりがあった。

大坂御坊の蓮如上人袈裟懸けの松
1496(明応5)年、本願寺の第8世法主・蓮如(れんにょ)は寺務を5男の実如(じつにょ)に譲り、上町台地の北端に一宇の坊社(大坂御坊)を建立して隠居した。

蓮如の書状には、「摂州東成郡生玉之庄内(せっしゅうひがしなりこおりいくたまのしょうない)、大坂トイフ在所」とあり、大坂はもともと東成郡の一部の地名であったことが分かる。

当時の大坂は「家の一軒もない畠ばかりの地で虎狼の棲むところ」(『拾塵記』)だったそうだが、京都・山科本願寺が法華宗徒に焼き討ちされたため大坂御坊に本願寺を移し、その後、堀や塀をめぐらせた寺内町として大いに発展していく。

大坂御坊を造るさい、蓮如上人が袈裟を懸けて宗派が栄えることを祈ったと伝えられるのが「蓮如上人袈裟懸けの松」です。
梅林から南へ坂を上った左側に「南無阿弥陀仏」と書かれた石碑があり、その裏側にあります。

蓮如上人の筆跡の「六字名号の碑」。
蓮如上人自筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号碑は雁木坂(がんぎざか)の上に建てられている。

石碑の傍らに置かれていた曰くがありそうな巨石だが、これは井戸の石枠で、石枠はこの井戸の本来のものでなく、大手口にある井戸が本願寺以来のものと伝えられ、蓮如井とも呼ばれていたが、その井戸枠がここに移されたもの。

空堀・北壁の毛利&細川の刻印、内堀(空堀)の桜門に向かって右側の石垣、肉眼でもはっきりと見える「一に○」の書かれた刻印石が毛利輝元の寄進、隣の●が9つあるのが細川忠興の九曜星・・・。

重要文化財 金明水井戸屋形、創建 1626年 (寛永3年)秀吉が水の毒気をぬくために金の延べ板を沈めたとされる。

江戸時代に「黄金水」と呼ばれていた。
1956年(昭和34年)の大阪城総合学術調査の結果この井戸は徳川幕府によって掘られたもので黄金の延べ板もなかった。

この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm 先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。

1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工、百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝えられている。

明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午(ひる)のドン」の名で親しまれてきた。
火薬節約その他の理由により、大正12~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。

太鼓櫓跡の手前、兵器支廠跡のあたり、ここもほとんど行く人いませんが西大番頭小屋跡がある。
大番は1組50騎×12組からなる徳川将軍直轄部隊でうち2組が1年交代で本丸の警備にあたったそうです。

大番頭小屋の他には与力や同心の住居があって、明治維新後はこちらも陸軍関連施設となりそのレンガ塀。

早稲田の森に彼岸花が咲いていました。

大阪城を囲む大阪城公園の一角にある大阪城公園内早稲田の森は、かつて大阪城公園を住宅地として開発しようとする行政の計画があったものを、早稲田の卒業生であった当時の大阪市の市長が「住宅地としてしまうよりも自然を残すべきである」として開発を許さず、公園として維持・保存することを決定。

これを大阪早稲田倶楽部が支援していたことから、感謝の意を込めて大阪城公園内に「早稲田の森」が作られたということです。
現在、早稲田の森には石碑が建造され、先人達の足跡を窺い知ることができます。

大阪城のばけものやしきあと
ひっそりとした場所でいかにも化け物が出そうな雰囲気がある。

この京橋口の定番(じょうばん)城に一定期間駐在して城を警護する人は妖怪に取り付かれて半狂乱になったり、なくなったりするものが多かった。

そのために定番上屋敷内には稲荷社が祀られ、新任の際には新たに小祠を修造・奉納するようになっていた。

そのため小祠ばかりになっていたが、1725年(享保10年)下野から度胸のすわった戸田大隅守が赴任 邸内にあった社を取り払い、玉造稲荷に移した。
そうすると2.4mほどの大きさの古狐があらわれ、戸田大隅守が退治した。
といわれています。

移動した社は玉造稲荷内の万慶稲荷神社(まんけんいなりじんじゃ) という所にある。

大阪城の人面石、青屋門から少し梅林へ寄ったあたりから内堀の石垣を見れば、人面石と呼ばれる謎の石がはめ込まれています。

画像では、真ん中より少し左上にある黒っぽい小さい石。

本丸から見て北東…つまり鬼門に当たる方角であるところから、魔除けのためにはめ込まれた物と考えられ、「鬼面石」とも呼ばれる。

人の顔が彫ってあるわけではないが、(あるいは時代とともに風化したのかもしれないが)江戸時代のころより人面石と呼ばれ、気味悪るがられていたそうだ。

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大阪城 へのアクセス、行き方歩き方

地下鉄 【谷町線】谷町四丁目駅1-B号出口 、天満橋駅3号出口
【中央線】谷町四丁目駅9号出口、森ノ宮駅1号出口、3-B号出口
【長堀鶴見緑地線】森ノ宮駅3-B号出口、大阪ビジネスパーク駅1号出口
JR 【大阪環状線】森ノ宮駅、大阪城公園駅
【東西線】大阪城北詰駅
京阪 天満橋駅
いずれも徒歩で約15分から20分

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