何度も通いなれた大阪城だが、意外と知らない場所がある。
いかに表面的にしか見ていないか。
大阪城天守閣の隠れスポット・日本庭園
大阪城の本丸には、1947(昭和22)年まで紀州御殿と呼ばれる桃山様式の壮大な書院建築があった。
1885(明治18)年、紀州徳川家の和歌山城二の丸にあった御殿を移築したもので、当初は大阪城を占有していた旧陸軍の師団司令部庁舎として利用された。
戦後は占領軍が接収しましたが、1947年、失火により御殿は全焼してしまいました。
その結果、付属していた西側の庭園だけが残った。
桜門から本丸に入るとすぐ天守閣がアップで目に入るので、つい天守閣に直行してします。
隅っこにあって、あまり観光客が行かない穴場なのです。
ここは団体客相手の写真撮影スポット。
さすが、天守閣がいい具合に映ります。
天守五層目には、黒漆に金箔で虎や鶴が描かれています。
大阪城・上田城の友好城郭記念碑。
記念碑は、土台の上に二本の石が寄り添うように立っています。
一本は大阪城もう一 本は上田城です。
真田昌幸・幸村親子は、西軍に参加し関が原の戦場に向かう徳川秀忠三万の軍を上田城で阻止しました。
徳川秀忠三万の軍は、関が原の戦いに間に合わず、秀忠は家康の叱責を浴びました。
結果西軍は破れ、昌幸・幸村は紀州の九度山に幽閉されました。
時が経ち、1614年幸村は大阪冬の陣に豊臣方に参戦し、同年の10月10日に大阪城に入城いたしました。
しかし、武勇むなしく大阪夏の陣で天王寺の安居神社で戦死しました。
幸村の大阪城に対する思いを後世に伝えるため、全国初の友好城郭宣言がなされました。
1620年(元和6年)修復の際に用材として使われず、その使命を果たせなかったことから残念石と呼ばれています。
天守閣の前にありますが、よーく観察される事もなく、みんな通り過ぎていきます。
この残念石、石を加工する際のノミ跡がはっきり見えて、当時の作業をイメージできます。
両横に鎮座しているこの石は大阪城修復の時天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石として念願かなわず、いまなお数多くのこされていることから「残念石」と呼ばれいる。
大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
残念石の傍らには曼珠沙華がひっそりと咲いていた。
秋の風情が感じられる。
山里曲輪枡形、画像前は姫門を経て山里丸へ、右手には山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失した。
画像後方は埋門となっていて、隠し曲輪へと通じている。
隠し曲輪、大阪城本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大阪城再構築時のもの。
出口が狭くて気づかれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。
一時機幕府の焔硝蔵が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。
実際にわかりにくく、観光客も素通りする人が多い。
隠し曲輪の石垣は打込接(うちこみはぎ)となっている。
またこの石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩)、小出家(丹波園部藩・出石藩)の刻印を間近に見ることができる。
刻印石広場、刻印石をたくさん見るには、天守閣北側、山里丸にあるの刻印石公園へ・・・
刻印がが見やすいように展示されているほか、どの刻印が誰のものか、解明されている物が表にまとめられているので、とてもわかりやすい。
山里丸から東を望めば、極楽橋の向こうにクリスタルタワーをはじめとしたOBPのビル群が見えている。
南を向けば天守も見える、なかなかのアングルだ。
ここから下った広場一帯を山里丸と呼ぶ。
豊臣時代には山里の風上を保つ松林や、桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていた。
豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見をたのしむくつろぎの場所で、秀吉の生母、大政所の居館もこの中にあったと伝えられている。
徳川時代寛永元年(1624年)の再築後は構造も建物もすっかり変わり、山里加番(城役人)の建物が立ち並んでいた。
慶長20年(=元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えられている。
それにちなんで平成9年(1997年)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。
1925年(大正14年)、大阪博覧会が行われた時に造られた階段…
その時、山里丸には、子供が遊べるちょっとした遊具が設置されたそうだが、その山里曲輪と天守閣とをつなぐ通路が、通常の一本だけでは、行く人と帰る人がゴッチャになってややこしいから、「グルリと一回りできるように」と、石垣をぶっ壊して作った帰り道用の通路なのだそうだ。
ずいぶん乱暴なことをしたものだ。
極楽橋より天守を望む。
極楽橋は山里丸と二の丸とを結ぶ橋。
豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。
江戸時代には幅約8メートル(4間)の木造で、慶応4年(=明治元年、1868)に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる昭和40年(1965)に再架橋された。
現在の極楽橋は長さ約54メートル、幅約5.4メートルで、橋脚【きょうきゃく】・主桁【しゅげた】を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄【ぎぼしこうらん】としている。
「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。
-歴史街道・案内板より
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形【ますがた】の内側に建つ。
創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945)の空襲で再び大破した。
昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。
現状は上部に櫓【やぐら】を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。
枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形【でますがた】だった。
さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。
この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋【そろばんばし】で、非常時以外は引き入れたままになっていた。
「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。
-歴史街道・案内板より
大阪城外堀の北側にある桃園。
毎年春になると色んな品種の桃が咲く。
敷地はそれほど広くはないが、桜の開花時期と近いので、この辺りでお花見すれば桃と桜が両方見れて良いかも。
北外堀からOBPビル具を望む。
大阪城公園の北東部に第二寝屋川を挟んで林立するOBPのビル群。
ビジネス街として新しく整備されたところで、世界の装飾品や各国の料理など楽しい店舗も多い。
京橋口は大阪城の西北の出入り口。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる京橋が架けられていることから、「京橋口」または「京口」と呼ばれた。
戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には多門櫓もあって、大阪城の名所になっていたが、昭和20年の空襲によって全焼した。
大阪城の京橋口を入って目に付くのが、城内で2番目に大きな肥後石という巨石で、かつてはこの石が一番大きい石と言われていたらしい・・・
それで豊臣秀吉の第一の忠臣である加藤肥後守清正が太閤さんのために引っ張って来て据えたという伝説が生まれ、肥後石とよばれるようになった。
もちろんこの石も徳川幕府による大坂城の再築の際に運ばれ据えられたもので、蛸石のある桜門桝形同様、岡山藩主池田家の担当区域だから、先の伝説は全く事実に反するそうだ・・・
表面積33畳(54.17平方m)・重さ120tで城内2位の巨石で、岡山城主の池田忠雄が運び据えたというのが正しいようだ。
肥後石の左手が「京橋口二番石」で、表面積が22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石。
大きさ : 高さ3.8m×横幅11.5m 表面露出面積36.00㎡ 推定重量 約81t
石の推定産地 : 讃岐・小豆島
担当大名 : 岡山藩・池田忠雄
乾櫓(いぬいやぐら)は西の丸の西北(戌亥)(いぬい)隅を守る隅櫓。
元和6年(1620)造営の平面L字型、総二階造り(一階と二階の床面積が同じ)の珍しい櫓で、千貫櫓とともに場内最古の建造物。
昭和34年(1959)解体修理。
大阪城西側の大手門から出て、前の道を北へ…
京阪:天満橋駅手前の右側にあるドーンセンター(女性総合センター)ビルの横に、建設時に出土した豊臣時代の三の丸の石垣が・・・
ドーンセンター北面にそった石垣がそれである。
平成元(1989)年のドーンセンター建設の折、敷地内から発見されたこの石垣は豊臣秀吉の最晩年に当たる慶長三(1598)年に1万7千もの民家を城外へ強制移転させて大坂城の防御力強化のために築かれた三の丸のものである。
案内板によると、敷地内の地下約2mの位置から東西約21mが発掘調査の後、あいだに詰められた小石に至るまで細心の注意を払ってこの地に復元されたのだと言う。
現存の高さは最大で3.3m。上部は破壊されており、前面に転がっていた石垣石から推定すると高さは約5m。
冬の陣講和後の徳川方による大坂城の外郭破壊がいかに徹底したものだったかを物語る。
やはり、秀吉時代主流だった自然石をそのまま積み上げる「野面積」のこの石垣。
整形された石を優美に積み上げた現在の大阪城のものとは全く肌合いが違う。
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大阪城 へのアクセス、行き方歩き方
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【中央線】谷町四丁目駅9号出口、森ノ宮駅1号出口、3-B号出口
【長堀鶴見緑地線】森ノ宮駅3-B号出口、大阪ビジネスパーク駅1号出口
JR 【大阪環状線】森ノ宮駅、大阪城公園駅
【東西線】大阪城北詰駅
京阪 天満橋駅
いずれも徒歩で約15分から20分。