佐伯 国木田独歩館

九州

独歩館本館の建物は、明治26年10月から明治27年7月末までの間、国木田独歩と弟収二が下宿した坂本永年邸。

大手門跡から毛利家の菩提寺である養賢寺までの道。
白壁に石畳、ここは佐伯・文学と歴史の道、日本のみち百選に入っている。

明 治26年(1893年)、佐伯町鶴谷学館教師として、弟と共に来佐した国木田独歩(くにきだどっぽ)。

後に、明治を代表する文豪として評される人物です。

鶴谷学館では英語と数学の教師として、熱心に教育を行う。
だが、クリスチャンである独歩を嫌う生徒や教師も多く、翌1894年6月末に退職する。

佐伯滞在はわずかに1年足らずでしたが、尺間山、彦山、元越山(もとごえさん)などの山々に登りました。

なかでも彼が最も愛し、何度も登ったのが城山でし た。
その様子が、彼の日記「欺かざるの記」にくわしく記されています。

主屋2階、独歩と弟収二が下宿した部屋。
低い天井が特徴で、腰を下ろして見る窓外の風景も趣があります。

独歩はここから当時よく見えた元越山を眺めました。

佐伯の春、先づ城山に来り。
    秋、また早く城山に来り。

冬はうど寒き音を先づ城山の林にきく也。   

城山は寂たる時、佐伯寂たり。

城山鳴る時、佐伯鳴る。

佐伯は城山のものなればなり。 独歩

佐伯滞在の経験は、後に彼が表す作品に大きな影響を与えることとなり、「春の鳥」「源おぢ」「鹿狩」など、佐伯を舞台とする作品として結実しました。

坂本永年は、独歩が教師として勤めた鶴谷学館の館長であり、公私ともに面倒を見ていました。

裏庭園、城山の麓にあたる地形を活かし、立体的に構成された庭園。

すでに坂本永年の時代には築造されていました。
山際からしみ出る湧水を溜めた池と古木が、武家屋敷らしい風情を醸しだしています。

土蔵の中には独歩の生い立ちや文学作品の特徴の解説、デジタル文庫などがあった。

土蔵の入り口にあった独歩の像、当時の姿だろうか。

1871年8月30日、国木田貞臣(専八、文政13年10月19日生)、淡路まん(天保14年12月27日生)の子として、千葉県銚子に生まれた。

父・専八は、旧龍野藩士で榎本武揚討伐後に銚子沖で難破し、吉野屋という旅籠でしばらく療養していた。

そこで奉公していたまんと知りあい、独歩が生まれた。
このとき専八は国元に妻子を残しており、まんも離縁した米穀商の雅治(次)郎との間にできた連れ子がいたとされる。

独歩は、戸籍上は雅治郎の子となっているが、その他の資料から判断して、父は専八であるらしい。

1874年、専八はまんと独歩を伴い上京し、東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構えた。
1899年には国元の妻と正式に離婚が成立している。
この頃、専八は司法省の役人となり、中国地方各地を転任したため、独歩は5歳から16歳まで山口、萩、広島、岩国などに住んだ。

少年期、学校の成績は優秀で読書好きである反面、相当ないたずらっ子で喧嘩の時、相手を爪でひっかくことからガリ亀とあだ名された。

みずからの出生の秘密について思い悩み、性格形成に大きく影響したと見られる。

錦見小学校簡易学科、山口今道小学校を経て、山口中学校に入学。
同級の今井忠治と親交を結んだ。

マンホールには国木田独歩の詩が。
佐伯城の三の丸櫓門 と明治26年に教師として、佐伯市に赴任した文豪国木田独歩の短編小説「春の鳥」の一部の「佐伯の春先づ城山に来り 独歩」の文字が入っている。   右下の花は、旧市の花=さざんか。

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国木田独歩館へのアクセス、行き方歩き方

大分県佐伯市城下東町9番37号
電話: 0972-22-2866

JR佐伯駅から徒歩20分、タクシー 5分
東九州自動車道佐伯ICより車で15分
最寄りのバス停: 大分バス・内町入口